昨日、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」5月度【マイノリティスタディルーム】のご報告をしたばかりですが、今日は次のご案内です。
毎月第2日曜日は【セルフイメージシェンジ
ルーム】です。
こちらでは、深く自分を理解し、よりよい行動の選択ができるように、コーチング・カウンセリングなどの手法を使って、参加者のみなさんにディスカッションやワークをしていただきます。
本当の「じぶん」、話してみませんか?
じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」
【セルフイメージチェンジ
ルーム】
日時
:6月8日(日)13:15~16:15
参加費 : 3,000円
参加定員 : 20名
場所 : 名古屋トヨペット 千種内山店 2F
第1会議室
名古屋市千種区内山3-7-3(地下鉄東山線・桜通線 今池駅1番出口より徒歩約5分, 地下鉄東山線
千種駅3番出口より徒歩約7分)
どなたでもご参加いただけます。
興味のある方はぜひお問い合わせください。
今回は「できることから始める」というテーマで開催します。
お問い合わせ・お申し込み先
「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)
Tel :
090(9262)8782
携帯mail :
torff_sessionroom@ezweb.ne.jp
活動ブログ「豆腐の Activity Life」、Facebook、mixiメッセージ、twitter、こくちーずなどからもお申し込み可能です。
定員になり次第終了させていただきますのでご了承ください。
お受付させていただいた方には24時間以内にご連絡させていただきますので、メールアドレスを添えてお申し込みください。
主催:「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)
たくさんの参加表明お待ちしております。
2014年5月25日日曜日
2014年5月24日土曜日
じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」5月度【マイノリティスタディルーム】のご報告
今日は、2回目の「じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』【マイノリティスタディルーム】」でした。
今回は、クルー(スタッフ)を含め、6名のみなさんが参加してくださいました。
以下、参加されたみなさんの感想です。
【Oさん】日常、なかなか「ありがとう」と言えない自分があり、ムリして言っても疲れてその次へとつながっていないとか、自分そのものがなかなか動けない、何だか暗い土の下に埋まっている感覚があり、ちょっと自分の溜め込んだ感情をよく調べたいと思いました。日常生活については、もっと「ありがとう」を沢山言っていこうと思います。
【Nikkoh さん】感謝は原動力になるものであり、幸福感につながるものだと思います。<あたりまえ>をあたりまえとしないことで、たくさんの感謝がわいてくると日々実感しています。ただ、してほしくないことを(善意で)されたときの感謝のように、強要されてする感謝は危ないとも思いました。ときには(憎んだらいけないと決めつけず)正しく憎み、ちゃんと許すということをしていきたいです。
【chizuru さん】久々に深い部分をみて話が出来たことがとてもうれしかったです。この深いところで話をする仲間が名古屋にしかいないかも…と感じてさみしい気持ちになりましたが、逆に1人でもいてくれることがうれしく思います。「鹿児島でもしよう!!」って思いましたぁ。ありがとうございました!! 様々な気持に気付かせて頂いてありがとうございました。
今回は、シングルファザーの例を動画で見てもらいながら、「ありがとうってなに?」というテーマでディスカッションしました。
動画の中心人物は33歳のパパと4歳の娘の親子でした。
その奮闘と、その後7年間の成長を、一生懸命さと心温まるやりとりで感動させてくれる動画です。
終盤には、11歳に成長した娘が、パパに手紙を読むシーンがあり、ジーンとさせられるものでした。
まず、参加者のみなさんに自己紹介と、いちばん最近「ありがとう」を言った場面か「感謝」をした出来事を話してもらいました。
そして、動画を見てもらって率直な感想を聴かせてもらいました。
後半は、パパと娘の「感謝」や「ありがとう」にはどんな特別な意味があったか、中村文也さんの「あほな奴ほど成功する」という本に書かれている感謝の大切さを例に挙げてどういう風に感じるか、を2グループに分けてディスカッションしてもらいました。
時間足りなくなるほど、ディスカッションは盛り上がりました。
印象的だったのは「打算でする感謝」「礼儀でする感謝」「心からする感謝」で中身が違うという意見が出たことでした。
また、「感謝」には偽善的なものや胡散くさいものも感じる場合があるという意見も印象に残りました。
みんな、深いです(笑)。
最後には、いくつかメッセージを伝えさせてもらいました。
ひとつめは、「感謝してもらって当然」というような自分のためにする偏った「感謝の強要」があると、された側は「感謝しなければならない」気持ちになり、「感謝できない自分ってダメ」というダメ出しが始まるということ、心から相手のためにしてあげる「感謝」に意味があるということを話させてもらいました。
ふたつめは、「感謝の罠」というのがあって(ボクの創った造語です)、自己肯定感が低くなっている人は、できないことをしてもらったこときにその相手に「感謝」をしすぎると、相手を尊敬しすぎて、相手がよく見えすぎて、そのまま自分に視点が向いたとき、それをできない自分へのダメ出しが増して、より自己肯定感が低くなり、自己否定感が高まる場合があるという話をさせてもらいました。
これまでの「セクシュアリティ勉強会」のときは、事例が極端すぎてなかなか当事者の気持ちになりきれないという意見が多くありましたが、【セルフイメージチェンジルーム】で理論的に、もしくは感覚的に得たものを、応用してもらえるような、この3時間だけでもいろんなシチュエーションに身を置くことで、実際に自己理解や相手理解を深めていってもらいたい意図もあります。
今日はそれを少し強調していろいろ自分をいろんな場面に当てはめて欲しいことを、少しみなさんに頑張ってもらいました。
今日は、ボクばかりがしゃべりすぎることなく、意識して進行してみました。
とても、素敵なワークショップになったと思います。
参加してくださったみなさん、ありがとうございました。
今回は、クルー(スタッフ)を含め、6名のみなさんが参加してくださいました。
以下、参加されたみなさんの感想です。
【Oさん】日常、なかなか「ありがとう」と言えない自分があり、ムリして言っても疲れてその次へとつながっていないとか、自分そのものがなかなか動けない、何だか暗い土の下に埋まっている感覚があり、ちょっと自分の溜め込んだ感情をよく調べたいと思いました。日常生活については、もっと「ありがとう」を沢山言っていこうと思います。
【Nikkoh さん】感謝は原動力になるものであり、幸福感につながるものだと思います。<あたりまえ>をあたりまえとしないことで、たくさんの感謝がわいてくると日々実感しています。ただ、してほしくないことを(善意で)されたときの感謝のように、強要されてする感謝は危ないとも思いました。ときには(憎んだらいけないと決めつけず)正しく憎み、ちゃんと許すということをしていきたいです。
【chizuru さん】久々に深い部分をみて話が出来たことがとてもうれしかったです。この深いところで話をする仲間が名古屋にしかいないかも…と感じてさみしい気持ちになりましたが、逆に1人でもいてくれることがうれしく思います。「鹿児島でもしよう!!」って思いましたぁ。ありがとうございました!! 様々な気持に気付かせて頂いてありがとうございました。
今回は、シングルファザーの例を動画で見てもらいながら、「ありがとうってなに?」というテーマでディスカッションしました。
動画の中心人物は33歳のパパと4歳の娘の親子でした。
その奮闘と、その後7年間の成長を、一生懸命さと心温まるやりとりで感動させてくれる動画です。
終盤には、11歳に成長した娘が、パパに手紙を読むシーンがあり、ジーンとさせられるものでした。
まず、参加者のみなさんに自己紹介と、いちばん最近「ありがとう」を言った場面か「感謝」をした出来事を話してもらいました。
そして、動画を見てもらって率直な感想を聴かせてもらいました。
後半は、パパと娘の「感謝」や「ありがとう」にはどんな特別な意味があったか、中村文也さんの「あほな奴ほど成功する」という本に書かれている感謝の大切さを例に挙げてどういう風に感じるか、を2グループに分けてディスカッションしてもらいました。
時間足りなくなるほど、ディスカッションは盛り上がりました。
印象的だったのは「打算でする感謝」「礼儀でする感謝」「心からする感謝」で中身が違うという意見が出たことでした。
また、「感謝」には偽善的なものや胡散くさいものも感じる場合があるという意見も印象に残りました。
みんな、深いです(笑)。
最後には、いくつかメッセージを伝えさせてもらいました。
ひとつめは、「感謝してもらって当然」というような自分のためにする偏った「感謝の強要」があると、された側は「感謝しなければならない」気持ちになり、「感謝できない自分ってダメ」というダメ出しが始まるということ、心から相手のためにしてあげる「感謝」に意味があるということを話させてもらいました。
ふたつめは、「感謝の罠」というのがあって(ボクの創った造語です)、自己肯定感が低くなっている人は、できないことをしてもらったこときにその相手に「感謝」をしすぎると、相手を尊敬しすぎて、相手がよく見えすぎて、そのまま自分に視点が向いたとき、それをできない自分へのダメ出しが増して、より自己肯定感が低くなり、自己否定感が高まる場合があるという話をさせてもらいました。
これまでの「セクシュアリティ勉強会」のときは、事例が極端すぎてなかなか当事者の気持ちになりきれないという意見が多くありましたが、【セルフイメージチェンジルーム】で理論的に、もしくは感覚的に得たものを、応用してもらえるような、この3時間だけでもいろんなシチュエーションに身を置くことで、実際に自己理解や相手理解を深めていってもらいたい意図もあります。
今日はそれを少し強調していろいろ自分をいろんな場面に当てはめて欲しいことを、少しみなさんに頑張ってもらいました。
今日は、ボクばかりがしゃべりすぎることなく、意識して進行してみました。
とても、素敵なワークショップになったと思います。
参加してくださったみなさん、ありがとうございました。
2014年5月23日金曜日
怒りの感情
3月に、ちょっとかなり強制的に参加者に感情を味わわせるセミナーに参加しました。
ボクは相当に体感覚が少なく、内省して思考で考えを落とし込んでいくのが得意です。
感じることが苦手です。
というか、体感覚はあるにはあるんだけど、感覚だけで覚えておけないです。
だから、感じたものを、言葉に表現して、脳に残しておきたい方です。
そのセミナーでは、思考では出てこないものを引き出すワークがありました。
それは、考えさせないように、矢継ぎ早に感覚をどんどんどんどん引き出すもので、考えさせる時間をくれませんでした。
脳を経由せずに、口をついて出てくるものが本当の感情なんだということなんだと思います。
でも、ボクにはそれが無理でした。
体感覚が優位に働くひとにはとても有意義なワークなんだと思います。
多くの参加者が、そのワークによって本当に望んでいるものを気づくことができました。
ボクがどうなったかというと、感じ取れないので、考えさせてほしい、と感じました。
だけど、そのワークがそういう意味のものなので、せめて苦手なものをじっくり感じる時間を欲しいと思いました。
結果、その考えさせないワークで、ボクは怒りが爆発しました。
今まででいちども出したことのないくらいの大声で怒鳴りかかりました。
結局、心から欲しいと思うもの、心から望んでいるものは出て来ずに、怒りだけが残りました。
それからの約1週間は、怒りに満ちて、小さなことにも腹が立ち、いらいらして大変でした。
怒りは喜怒哀楽のひとつで、感情です。
でも、心理学の世界では、怒りは第二感情だと言われています。
怒りの奥に、悲しみ・寂しさ・空しさ・罪悪感・孤独感・嫉妬心・不安などがあると言われています。
ボクの場合は、かつては、不安・罪悪感・孤独感が入り混じったものだったと思います。
今のボクは自己否定感をいろいろ変えてきて、ダメ出し感がなくなってきたので、おそらく、不安が主に怒りとして表出していると思います。
たぶん、ボクは昔から自分が感情を怒りとして表出させると、ひとを思い切り傷つけたりする凶暴性を無意識で知っていたので、受け止めきれない感情は怒りとしては噴出させずに、理詰めで論理武装していました。
防衛本能からひとを言いくるめてしまうようになっていました。
もしかすると、今でもその傾向はあるかもしれません。
でも、心理を扱うことを仕事にしたので、かつてほどのゴリ押し感は少なくなくなってきたと思います。
怒りを噴出させているときは、おそらくその奥にある第一感情を受け止めたり認めたりすることが怖かったり、傷を受ける恐怖から、怒りという仮面を被っているんだと思います。
それは、鬼のような、または般若か悪魔かなまはげのような顔をしたものです。
そうして威嚇をすることで、傷を受けないようにしているんですよね。
悲しんだり、寂しそうだったり、妬んでいたり、不安そうであったりする素顔や本性を見せないために。
でも、怒りはひとを傷つけたり、ビビらせたりしてしまいます。
そうしてまた、怒りを表出した自分にみんなダメ出しをしてしまいます。
では、怒りっぽいひと・怒ることでいつも失敗を繰り返してしまうひとは、どうしたらよいのでしょうか。
怒りは、喜怒哀楽のひとつなので、あっていいものです。
むしろ、怒りがないと、へらへら笑っているだけの、もしくは、閉じ篭ってしまうだけのひとになってしまいます。
どんなひとでも、いちどは誰かを殺したいほど怒りを憶えたことがあるはずです。
怒りが出てきたこと自体は、ちゃんと自分を護っていることなので、ダメだと思う必要がないんです。
それを誰かにぶつけるように噴出してしまうことが、トラブルになるんだと思います。
その怒りの奥の第一感情が何であるかをちゃんと知り、その第一感情を直接感じにくい環境下に身を置くように心がけるのが大事なんだと思います。
そして、その奥の第一感情を上手に傷つくことなく受け止められるように準備するのが大切なんじゃないかと。
ボクの場合だと、怒りが出てくるときの第一感情は不安なので、不安をしっかり時間をかけて感じ取り、その不安な感覚にダメ出しをせずに、寄り添うようにしています。
本音を引き出すワークをしたセミナーからは、おかげさまで脱却し、もともとの穏やかな日常を取り戻すことができました。
ぜひ、みなさんも、取り組んでみて欲しいな、と思います。
怒りの感情でトラブル起こさないひとは何も取り組む必要ないですけどね。
ボクは相当に体感覚が少なく、内省して思考で考えを落とし込んでいくのが得意です。
感じることが苦手です。
というか、体感覚はあるにはあるんだけど、感覚だけで覚えておけないです。
だから、感じたものを、言葉に表現して、脳に残しておきたい方です。
そのセミナーでは、思考では出てこないものを引き出すワークがありました。
それは、考えさせないように、矢継ぎ早に感覚をどんどんどんどん引き出すもので、考えさせる時間をくれませんでした。
脳を経由せずに、口をついて出てくるものが本当の感情なんだということなんだと思います。
でも、ボクにはそれが無理でした。
体感覚が優位に働くひとにはとても有意義なワークなんだと思います。
多くの参加者が、そのワークによって本当に望んでいるものを気づくことができました。
ボクがどうなったかというと、感じ取れないので、考えさせてほしい、と感じました。
だけど、そのワークがそういう意味のものなので、せめて苦手なものをじっくり感じる時間を欲しいと思いました。
結果、その考えさせないワークで、ボクは怒りが爆発しました。
今まででいちども出したことのないくらいの大声で怒鳴りかかりました。
結局、心から欲しいと思うもの、心から望んでいるものは出て来ずに、怒りだけが残りました。
それからの約1週間は、怒りに満ちて、小さなことにも腹が立ち、いらいらして大変でした。
怒りは喜怒哀楽のひとつで、感情です。
でも、心理学の世界では、怒りは第二感情だと言われています。
怒りの奥に、悲しみ・寂しさ・空しさ・罪悪感・孤独感・嫉妬心・不安などがあると言われています。
ボクの場合は、かつては、不安・罪悪感・孤独感が入り混じったものだったと思います。
今のボクは自己否定感をいろいろ変えてきて、ダメ出し感がなくなってきたので、おそらく、不安が主に怒りとして表出していると思います。
たぶん、ボクは昔から自分が感情を怒りとして表出させると、ひとを思い切り傷つけたりする凶暴性を無意識で知っていたので、受け止めきれない感情は怒りとしては噴出させずに、理詰めで論理武装していました。
防衛本能からひとを言いくるめてしまうようになっていました。
もしかすると、今でもその傾向はあるかもしれません。
でも、心理を扱うことを仕事にしたので、かつてほどのゴリ押し感は少なくなくなってきたと思います。
怒りを噴出させているときは、おそらくその奥にある第一感情を受け止めたり認めたりすることが怖かったり、傷を受ける恐怖から、怒りという仮面を被っているんだと思います。
それは、鬼のような、または般若か悪魔かなまはげのような顔をしたものです。
そうして威嚇をすることで、傷を受けないようにしているんですよね。
悲しんだり、寂しそうだったり、妬んでいたり、不安そうであったりする素顔や本性を見せないために。
でも、怒りはひとを傷つけたり、ビビらせたりしてしまいます。
そうしてまた、怒りを表出した自分にみんなダメ出しをしてしまいます。
では、怒りっぽいひと・怒ることでいつも失敗を繰り返してしまうひとは、どうしたらよいのでしょうか。
怒りは、喜怒哀楽のひとつなので、あっていいものです。
むしろ、怒りがないと、へらへら笑っているだけの、もしくは、閉じ篭ってしまうだけのひとになってしまいます。
どんなひとでも、いちどは誰かを殺したいほど怒りを憶えたことがあるはずです。
怒りが出てきたこと自体は、ちゃんと自分を護っていることなので、ダメだと思う必要がないんです。
それを誰かにぶつけるように噴出してしまうことが、トラブルになるんだと思います。
その怒りの奥の第一感情が何であるかをちゃんと知り、その第一感情を直接感じにくい環境下に身を置くように心がけるのが大事なんだと思います。
そして、その奥の第一感情を上手に傷つくことなく受け止められるように準備するのが大切なんじゃないかと。
ボクの場合だと、怒りが出てくるときの第一感情は不安なので、不安をしっかり時間をかけて感じ取り、その不安な感覚にダメ出しをせずに、寄り添うようにしています。
本音を引き出すワークをしたセミナーからは、おかげさまで脱却し、もともとの穏やかな日常を取り戻すことができました。
ぜひ、みなさんも、取り組んでみて欲しいな、と思います。
怒りの感情でトラブル起こさないひとは何も取り組む必要ないですけどね。
2014年5月19日月曜日
相手に関心を持つ
先週土曜日、「第21回マインドスペース夢カフェ」でした。
「シリーズ相手理解を深める」の第2回目、今回のテーマは「②相手の性格のタイプを知る」でした。
第1回目のときに、「傾聴」のお話をして、そこには「受容」と「共感」が大事であること、そして、「コミュニケーションを阻む12の対応」の話をしました。
そして、今回は、「ラポール(信頼関係)の構成要素」として非言語が93%なので、相手の観察をして、マッチング・ペーシング・ミラーリングをすると相手が安心しやすい、という話をさせていただきました。
また、相手の得意として使いっているVAK傾向(五感情報の優先傾向)を、動作・しぐさ・言葉などから観察して読み取ると、ペーシングがかけやすい、という話もさせてもらいました。
ここまで、続けて、徹底的に相手に合わせていくと、自分の理解や開示が少なくなって、我慢してむりやり合わせようとする自己犠牲感が出てくる場合があるということで、「自己一致」の話をしました。
結局のところ、技法としての方法論は提示するけど、いちばん大事なのは、「相手に関心を持つこと」「頑張って合わせすぎないこと」だということを強調しました。
「相手に関心を持つ」と、自然に「相手を知ろうとする」気持ちが出てきます。
なぜ、それをしないのかというと、「相手」と「自分」の違いにひとは異様なまでに執着し、その違いを受け止めきれないからだと思います。
「相手」が「自分」と違うことを受け止めきれないし、「自分」が「相手」と違うことも受け止めきれないんですよね。
ひとはそれぞれ、違う背景や体験を持っていて、違う考え方や思い方や感じ方をして当然なのに、違いがあたかも行けないことのように感じてしまうんだと思います。
そして、その違和感から来る居心地の悪さに堪え切れなくなり、「相手」を知ろうすることをやめてしまうんだと思います。
「自己一致」とは、その居心地の悪さから逃げることではなく、「相手」とのやり取りの中から出てくる自分の感じ方や思い方、感情・感覚などをそのままにしておくことです。
そして、その違和感や居心地の悪さは、「相手」を傷つけないように「開示」して、「相互理解」をしていくことが、良好な関係性を築くことであり、良好なコミュニケーションをすることなんだと思っています。
「シリーズ相手理解を深める」を4回終えたら、次は「シリーズ自己開示を究める」を4回やります。
これと並行して、名古屋会場で開催される「シリーズ自己理解を深める」で、「自分」も「相手」も深く理解でき、コミュニケーションが良好に行われ、関係性が築けていくと思います。
とことんここにこだわって、1年このカリキュラムを全力で続けていこうと思っています。
参加してくださったみなさん、ありがとうございました。
「シリーズ相手理解を深める」の第2回目、今回のテーマは「②相手の性格のタイプを知る」でした。
第1回目のときに、「傾聴」のお話をして、そこには「受容」と「共感」が大事であること、そして、「コミュニケーションを阻む12の対応」の話をしました。
そして、今回は、「ラポール(信頼関係)の構成要素」として非言語が93%なので、相手の観察をして、マッチング・ペーシング・ミラーリングをすると相手が安心しやすい、という話をさせていただきました。
また、相手の得意として使いっているVAK傾向(五感情報の優先傾向)を、動作・しぐさ・言葉などから観察して読み取ると、ペーシングがかけやすい、という話もさせてもらいました。
ここまで、続けて、徹底的に相手に合わせていくと、自分の理解や開示が少なくなって、我慢してむりやり合わせようとする自己犠牲感が出てくる場合があるということで、「自己一致」の話をしました。
結局のところ、技法としての方法論は提示するけど、いちばん大事なのは、「相手に関心を持つこと」「頑張って合わせすぎないこと」だということを強調しました。
「相手に関心を持つ」と、自然に「相手を知ろうとする」気持ちが出てきます。
なぜ、それをしないのかというと、「相手」と「自分」の違いにひとは異様なまでに執着し、その違いを受け止めきれないからだと思います。
「相手」が「自分」と違うことを受け止めきれないし、「自分」が「相手」と違うことも受け止めきれないんですよね。
ひとはそれぞれ、違う背景や体験を持っていて、違う考え方や思い方や感じ方をして当然なのに、違いがあたかも行けないことのように感じてしまうんだと思います。
そして、その違和感から来る居心地の悪さに堪え切れなくなり、「相手」を知ろうすることをやめてしまうんだと思います。
「自己一致」とは、その居心地の悪さから逃げることではなく、「相手」とのやり取りの中から出てくる自分の感じ方や思い方、感情・感覚などをそのままにしておくことです。
そして、その違和感や居心地の悪さは、「相手」を傷つけないように「開示」して、「相互理解」をしていくことが、良好な関係性を築くことであり、良好なコミュニケーションをすることなんだと思っています。
「シリーズ相手理解を深める」を4回終えたら、次は「シリーズ自己開示を究める」を4回やります。
これと並行して、名古屋会場で開催される「シリーズ自己理解を深める」で、「自分」も「相手」も深く理解でき、コミュニケーションが良好に行われ、関係性が築けていくと思います。
とことんここにこだわって、1年このカリキュラムを全力で続けていこうと思っています。
参加してくださったみなさん、ありがとうございました。
2014年5月14日水曜日
じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」5月度【マイノリティスタディルーム】のご案内
昨日、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」5月度【セルフイメージチェンジルーム】のご報告をしたばかりですが、今日は次のご案内です。
毎月第4土曜日は【マイノリティスタディ ルーム】です。
こちらのルームでは、ほかの人とどこか違う、違和感に感じているところを個性に変えていくアプローチで、よりよい行動の選択ができるように、マイノリティの題材を使って、参加者のみなさんにディスカッションを重ねていただきます。
本当の「じぶん」、話してみませんか?
じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」
【マイノリティスタディ ルーム】
日時 : 5月24日(土)13:15~16:15
参加費 : 3,000円
参加定員 : 20名
場所 : ナディアパーク(青少年文化センター) 8F ビデオルーム
名古屋市中区栄3-18-1 ナディアパーク内
地下鉄名城線・東山線「栄駅」より徒歩約7分, 名城線「矢場町駅」6番出口より徒歩約5分
どなたでもご参加いただけます。
興味のある方はぜひお問い合わせください。
今回は「ありがとうってなに?」というテーマで開催します。
お問い合わせ・お申し込み先
「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)
Tel : 090(9262)8782
携帯mail : torff_sessionroom@ezweb.ne.jp
活動ブログ「豆腐の Activity Life」、Facebook、mixiメッセージ、twitter、こくちーずなどからもお申し込み可能です。
定員になり次第終了させていただきますのでご了承ください。
お受付させていただいた方には24時間以内にご連絡させていただきますので、メールアドレスを添えてお申し込みください。
主催:「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)
たくさんの参加表明お待ちしております。
毎月第4土曜日は【マイノリティスタディ ルーム】です。
こちらのルームでは、ほかの人とどこか違う、違和感に感じているところを個性に変えていくアプローチで、よりよい行動の選択ができるように、マイノリティの題材を使って、参加者のみなさんにディスカッションを重ねていただきます。
本当の「じぶん」、話してみませんか?
じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」
【マイノリティスタディ ルーム】
日時 : 5月24日(土)13:15~16:15
参加費 : 3,000円
参加定員 : 20名
場所 : ナディアパーク(青少年文化センター) 8F ビデオルーム
名古屋市中区栄3-18-1 ナディアパーク内
地下鉄名城線・東山線「栄駅」より徒歩約7分, 名城線「矢場町駅」6番出口より徒歩約5分
どなたでもご参加いただけます。
興味のある方はぜひお問い合わせください。
今回は「ありがとうってなに?」というテーマで開催します。
お問い合わせ・お申し込み先
「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)
Tel : 090(9262)8782
携帯mail : torff_sessionroom@ezweb.ne.jp
活動ブログ「豆腐の Activity Life」、Facebook、mixiメッセージ、twitter、こくちーずなどからもお申し込み可能です。
定員になり次第終了させていただきますのでご了承ください。
お受付させていただいた方には24時間以内にご連絡させていただきますので、メールアドレスを添えてお申し込みください。
主催:「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)
たくさんの参加表明お待ちしております。
じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」5月度【セルフイメージチェンジルーム】のご報告
昨日は、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」を始めて2回目の【セルフイメージチェンジルーム】でした。
今回は「視点を変える」というテーマで、「認知の歪み」「リフレーミング」を説明しました。
今回は、クルー(スタッフ)も1人のみ、それ以外の参加者2名という小規模なワークショップになりました。
以下、参加されたみなさんの感想です。
【アキ子さん】小さな違和感を大切に、自分が自分にやさしくできるようにしていきたいと思います。
【tさん】さすが豆腐さん、テーマの掘り下げかたが「ここまで、いくかー!」って感じで、とてもよかった。
【さっちゃん】認知の歪みについては知っていたけど、どういう影響を及ぼしているかまでは考えられていなかったのでいい勉強になりました。
今回は、割とプライベートでも親密にしてもらっている方ばかりだったし、ボクのことをよく理解されている方ばかりだったので、ちょっと深めに講師させていただきました。
リフレーミングは、ネガティヴな要素をポジティヴに言い換えてみる、捉え直してみる、という手法ですが、その効果とともに、人間のココロの思考パターンの癖をあわせてお話し、具体的な参加者のみなさんのネガティヴな思い込みについてもひとつひとつ癖を探ったりもしました。
けれども、それは手法のひとつであって、本来は自分にダメ出しをしてしまいがちなところがネガティヴスパイラルになるということに気づいた方がいいこと、そのダメ出し感をどうやって解消していくかということについてたくさんお話させていただきました。
最近、ブログによく書いていることなどもたくさんお話させていただきました。
特に、自分の思い込みを作ってしまった環境を正しく憎むことについては、詳しくお話しました。
もっと、みんなに話をしてもらおうというのが、前回の方針だったのに、またボクがたくさん喋ってしまいました。
伝えたいメッセージがたくさんあったのもあるけれど、今回の参加者のみなさんは、ボクの話すことを聞いて理解したい人ばかりだろうな、とも思ったので、今回もかなり満足しています。
盛況になることも大切だけど、少人数のときこそ、より参加者の方に物足りない思いをさせたくなかったのもあったかもしれません。
少人数のときしかできないワークショップになりました。
みなさんの「よかった」という気持ちもきちんと伝わってきました。
参加してくれたみなさん、ありがとうございました。
今回は「視点を変える」というテーマで、「認知の歪み」「リフレーミング」を説明しました。
今回は、クルー(スタッフ)も1人のみ、それ以外の参加者2名という小規模なワークショップになりました。
以下、参加されたみなさんの感想です。
【アキ子さん】小さな違和感を大切に、自分が自分にやさしくできるようにしていきたいと思います。
【tさん】さすが豆腐さん、テーマの掘り下げかたが「ここまで、いくかー!」って感じで、とてもよかった。
【さっちゃん】認知の歪みについては知っていたけど、どういう影響を及ぼしているかまでは考えられていなかったのでいい勉強になりました。
今回は、割とプライベートでも親密にしてもらっている方ばかりだったし、ボクのことをよく理解されている方ばかりだったので、ちょっと深めに講師させていただきました。
リフレーミングは、ネガティヴな要素をポジティヴに言い換えてみる、捉え直してみる、という手法ですが、その効果とともに、人間のココロの思考パターンの癖をあわせてお話し、具体的な参加者のみなさんのネガティヴな思い込みについてもひとつひとつ癖を探ったりもしました。
けれども、それは手法のひとつであって、本来は自分にダメ出しをしてしまいがちなところがネガティヴスパイラルになるということに気づいた方がいいこと、そのダメ出し感をどうやって解消していくかということについてたくさんお話させていただきました。
最近、ブログによく書いていることなどもたくさんお話させていただきました。
特に、自分の思い込みを作ってしまった環境を正しく憎むことについては、詳しくお話しました。
もっと、みんなに話をしてもらおうというのが、前回の方針だったのに、またボクがたくさん喋ってしまいました。
伝えたいメッセージがたくさんあったのもあるけれど、今回の参加者のみなさんは、ボクの話すことを聞いて理解したい人ばかりだろうな、とも思ったので、今回もかなり満足しています。
盛況になることも大切だけど、少人数のときこそ、より参加者の方に物足りない思いをさせたくなかったのもあったかもしれません。
少人数のときしかできないワークショップになりました。
みなさんの「よかった」という気持ちもきちんと伝わってきました。
参加してくれたみなさん、ありがとうございました。
2014年5月10日土曜日
「比較する」ということ
「比較する」ことがよくないことのようにいうひとがよくいます。
「比較する」こと自体そんなにいけないことでしょうか。
思考パターンの悪い癖の例です。
ひとと比較して、自分が劣っていると劣等感が出て「そんな自分ってだめだよね」って自分にダメ出しが始まります。
ひとと比較して、自分が優れていると優越感が出て傲慢になり、ひとを傷つけます。
ひとによっては、もしかしたら、「傲慢な自分ってだめだよね」って自分にダメ出しが始まります。
ひとと比較して、相手が劣っていると相手を蔑み「こんなひとってだめだよね」って相手にダメ出しが始まります。
ひとによっては、もしかしたら、相手をダメ出しする自分にダメ出しが始まります。
ひとと比較して、相手が優れていると嫉妬心が出て、「そんな自分ってだめだよね」って自分にダメ出しが始まります。
幸せなひとを見て、自分の不幸を嘆きます。
で、また自分にダメ出しします。
成功したひとを見て、できない自分を嘆きます。
で、また自分にダメ出しします。
みんな、これってよく知っているよね。
でも、「だから比較することがよくない」とか「比較するのをやめよう」ってなるよね。
比較は悪くないと思うんです。
比較すると自分の個性が見えてくるから。
「比較」が悪いのではなくて、比較してダメ出ししたり、余分な感情が自分や相手を傷つけることがよくないんだよな。
比較して、相手が優れていれば、嫉妬するんじゃなくて尊敬したり学べばいいんだよね。
比較して、自分が優れていれば、傲慢にならずに自信を持てばいいんだよね。
比較して、ただ、それをひととの違いと受け止めればいいのです。
昔は、ひとと違うことが辛かったです。
なんでこんな風になっちゃったんだろう、ひとの輪の中には入れない、共感するひとがいない、孤独だ、寂しいし悲しくて、こんなんで生きていけるんだろうか不安で。
でも今は、ひとと違うことがボクをいきいきと存在させてくれています。
こう生まれてこなかったら、こういう考えを持たなかったら、今のようなボクはありえません。
すべての苦しかった過去が、今のボクの肥やしになっています。
ひとや社会と「比較」することが苦しみだったし傷になったものだったけど、今はただの状態だと思っています。
「比較」することがなければ、逆に今は自分の存在価値を確認できないかもしれません。
ダメなのは「比較するここと」ではなく、「比較すること」によって生じる意味のない思考パターンやダメ出しです。
比較することで、傷つくくらいなら、一旦比較するのを一時的に避けてみるのは大賛成です。
でも逆に比較せずに、自分の存在価値を見出すのも難しいです。
違っているから、関係するのが楽しいのです。
おんなじ考え方の人間なんて存在しません。
だけど、所属の欲求や共有感の欠乏や孤独感の回避から、人間はひとと関わり、生きる意味や生きる価値を感じるんだと思います。
そうしたら、比較しないなんて、無理ですよね。
上手に比較したいものです。
「比較する」こと自体そんなにいけないことでしょうか。
思考パターンの悪い癖の例です。
ひとと比較して、自分が劣っていると劣等感が出て「そんな自分ってだめだよね」って自分にダメ出しが始まります。
ひとと比較して、自分が優れていると優越感が出て傲慢になり、ひとを傷つけます。
ひとによっては、もしかしたら、「傲慢な自分ってだめだよね」って自分にダメ出しが始まります。
ひとと比較して、相手が劣っていると相手を蔑み「こんなひとってだめだよね」って相手にダメ出しが始まります。
ひとによっては、もしかしたら、相手をダメ出しする自分にダメ出しが始まります。
ひとと比較して、相手が優れていると嫉妬心が出て、「そんな自分ってだめだよね」って自分にダメ出しが始まります。
幸せなひとを見て、自分の不幸を嘆きます。
で、また自分にダメ出しします。
成功したひとを見て、できない自分を嘆きます。
で、また自分にダメ出しします。
みんな、これってよく知っているよね。
でも、「だから比較することがよくない」とか「比較するのをやめよう」ってなるよね。
比較は悪くないと思うんです。
比較すると自分の個性が見えてくるから。
「比較」が悪いのではなくて、比較してダメ出ししたり、余分な感情が自分や相手を傷つけることがよくないんだよな。
比較して、相手が優れていれば、嫉妬するんじゃなくて尊敬したり学べばいいんだよね。
比較して、自分が優れていれば、傲慢にならずに自信を持てばいいんだよね。
比較して、ただ、それをひととの違いと受け止めればいいのです。
昔は、ひとと違うことが辛かったです。
なんでこんな風になっちゃったんだろう、ひとの輪の中には入れない、共感するひとがいない、孤独だ、寂しいし悲しくて、こんなんで生きていけるんだろうか不安で。
でも今は、ひとと違うことがボクをいきいきと存在させてくれています。
こう生まれてこなかったら、こういう考えを持たなかったら、今のようなボクはありえません。
すべての苦しかった過去が、今のボクの肥やしになっています。
ひとや社会と「比較」することが苦しみだったし傷になったものだったけど、今はただの状態だと思っています。
「比較」することがなければ、逆に今は自分の存在価値を確認できないかもしれません。
ダメなのは「比較するここと」ではなく、「比較すること」によって生じる意味のない思考パターンやダメ出しです。
比較することで、傷つくくらいなら、一旦比較するのを一時的に避けてみるのは大賛成です。
でも逆に比較せずに、自分の存在価値を見出すのも難しいです。
違っているから、関係するのが楽しいのです。
おんなじ考え方の人間なんて存在しません。
だけど、所属の欲求や共有感の欠乏や孤独感の回避から、人間はひとと関わり、生きる意味や生きる価値を感じるんだと思います。
そうしたら、比較しないなんて、無理ですよね。
上手に比較したいものです。
2014年5月6日火曜日
正しく憎む
日曜日は「マインドスペース夢カフェ」で「コンプレックスを個性に変える」というテーマで講師をさせていただきました。
コンプレックスはその人のただの特徴であり、短所とは限らないというような内容のものです。
そこで認知療法や認知行動療法で言う「認知の歪み」のハナシをしました。
認知を歪ませるココロのパターンについて10とおりあることを話しました。
①二分割思考(全か無か思考・白黒思考・二分化思考)
②過度の一般化(一般かのしすぎ)
③選択的抽出(心のフィルター・心のサングラス・心の色メガネ)
④マイナス化思考(マイナス思考)
⑤結論の飛躍(心の読みすぎ・先読みの誤り)
⑥拡大解釈(誇大視・拡大視・破局化・破滅化・双眼鏡のトリック)と過小評価(凝縮視)
⑦感情的理由づけ(感情的決めつけ)
⑧命令的思考(すべき思考・せねばならない思考)
⑨レッテル貼り
⑩自己中心的思考(自己関連づけ・個人化)
この詳しい内容については、5月のじぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」【セルフイメージチェンジルーム】で説明するので、よかったら参加してね。
で、この内容はともかく、そういう心のメカニズムがあるとして、そこに引っかかってやられてしまったりネガティヴ思考になぜなってしまうんだろう、なぜこういう心のメカニズムになってしまったんだろう、ということが参加者の方から声がありました。
その話題が、「マインドスペース夢カフェ」のあと、ほかの参加者の方と懇親していたときに、なぜみんな自分にダメ出しをするんだろう、という話に発展しました。
何事もうまくいっている人は何も考える必要はありません。
うまくいってない人、うまくいかなかった人は、自分のダメ出し感に向き合う必要があるよね、ということになりました。
なぜ、うまくいっているひとは、何も考えなくてよくて、うまくいってないひとだけ、自分のダメ出し感に向き合わないといけないんでしょうか。
それは、そのうまくいっていないひとに何らかの痛みや苦しみがあるからです。
苦しみや痛みががあることわかっていて、見ないように蓋したり、受け止めようとしないのって、病気だというのがうすうすわかっていて病気を治そうとせずに鎮痛剤打ってやり過ごしているのとおんなじだと思うのです。
もっというと、やりたいことができていないのに、それをやりたくないことにすり替えて、やりたいことだけやってりゃいいって思い込んでいるっていうのは、痛む前に鎮痛剤を予防のように飲んでいるのとおんなじだと思うのです。
鎮痛剤はいつか効かなくなりますよ。
体は麻痺していきますよ。
病気は悪化しますよ。
苦しまなくていい人は健康な人だけ。
と、ボクは思っています。
「ボクが」思っているだけですが。
もともとの自分の考え方のパターンと、親の教育や社会のルールが違うときに、両方が上手く受け入れられなかったり、深く傷ついたときに、自分へのダメ出しが始まるんじゃないかと思うようになりました。
自分のルールが間違っているわけじゃないのに、親の方針や社会のルールと合わないと、はじき出されて、自分へのダメ出しが始まるんですよね。
自分のルールを「間違っている」ことにしないと社会で生きていけないから。
そうだとしたら、自分が「間違っていない」ことを受け入れるために、一旦、社会のルールや親の決めつけた教育が自分を苦しめていたことをしっかり恨んだり憎んだりしないと、自分が「間違っていない」ことに気づけないんですね。
親や社会を恨んだり憎んだりするなんてダメだよね、ってさらに自分にダメ出しをすることも止まらなくなっていくわけです。
親や社会に怒りをぶつけろ、と言っているのではなく、そういう思い込まされ方が自分を苦しめていたことをしっかり知って、しっかり落ち込むことが必要だと思うんです。
そうして初めて、こう思い込んじゃったのは仕方がないんだ、自分が悪かったわけじゃないんだと思えるのだと思います。
そうすると、ダメ出ししちゃってた自分が自分で赦せて癒せるようになるんだと。
自分にダメ出しをしなくなると、そういう決めつけをした親やこうなってしまった社会のルールも赦せるようになります。
そうして自己否定満載の自分になっていってたことに気づきます。
自己肯定感を上げるには、本来の自分と違う決めつけをし続けた親や苦しいルールを押しつける社会を「正しく憎む」ことが必要なんだよね、って思いました。
「正しく憎む」ことをして「正しく挫折する」ことをきちんと出来ている人は、自己肯定感も上がり、一旦憎んだ親や社会も、自分を赦せているから簡単に赦せるんだろうな、って。
自分が「変わっていく」ことは怖いです。
「変わる」ということは新しい考え方を始めるのだから、未経験のことをするのは怖いに決まっています。
その恐怖のあまり、「変わらない」ことを選択してしまうんですね。
でも「変わらない」ことはいつまでたっても苦しいままです。
みんな恐怖のあまり苦しみ続けているんです。
「苦しい」ことは、経験済みで、ずっと耐えていたことだから怖くないのです。
「変わらない」ということは、恐怖に向き合わなくていいから楽なんです。
みなさんは「苦しいままの人生」を続けますか?
気づいて、変わって、「苦しまなくていい人生」を選びますか?
今日の「マインドスペース夢カフェ」は、ボクにいい気づきをくれたと思います。
反省点はあるけれど、いいワークショップになりました。
コンプレックスはその人のただの特徴であり、短所とは限らないというような内容のものです。
そこで認知療法や認知行動療法で言う「認知の歪み」のハナシをしました。
認知を歪ませるココロのパターンについて10とおりあることを話しました。
①二分割思考(全か無か思考・白黒思考・二分化思考)
②過度の一般化(一般かのしすぎ)
③選択的抽出(心のフィルター・心のサングラス・心の色メガネ)
④マイナス化思考(マイナス思考)
⑤結論の飛躍(心の読みすぎ・先読みの誤り)
⑥拡大解釈(誇大視・拡大視・破局化・破滅化・双眼鏡のトリック)と過小評価(凝縮視)
⑦感情的理由づけ(感情的決めつけ)
⑧命令的思考(すべき思考・せねばならない思考)
⑨レッテル貼り
⑩自己中心的思考(自己関連づけ・個人化)
この詳しい内容については、5月のじぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」【セルフイメージチェンジルーム】で説明するので、よかったら参加してね。
で、この内容はともかく、そういう心のメカニズムがあるとして、そこに引っかかってやられてしまったりネガティヴ思考になぜなってしまうんだろう、なぜこういう心のメカニズムになってしまったんだろう、ということが参加者の方から声がありました。
その話題が、「マインドスペース夢カフェ」のあと、ほかの参加者の方と懇親していたときに、なぜみんな自分にダメ出しをするんだろう、という話に発展しました。
何事もうまくいっている人は何も考える必要はありません。
うまくいってない人、うまくいかなかった人は、自分のダメ出し感に向き合う必要があるよね、ということになりました。
なぜ、うまくいっているひとは、何も考えなくてよくて、うまくいってないひとだけ、自分のダメ出し感に向き合わないといけないんでしょうか。
それは、そのうまくいっていないひとに何らかの痛みや苦しみがあるからです。
苦しみや痛みががあることわかっていて、見ないように蓋したり、受け止めようとしないのって、病気だというのがうすうすわかっていて病気を治そうとせずに鎮痛剤打ってやり過ごしているのとおんなじだと思うのです。
もっというと、やりたいことができていないのに、それをやりたくないことにすり替えて、やりたいことだけやってりゃいいって思い込んでいるっていうのは、痛む前に鎮痛剤を予防のように飲んでいるのとおんなじだと思うのです。
鎮痛剤はいつか効かなくなりますよ。
体は麻痺していきますよ。
病気は悪化しますよ。
苦しまなくていい人は健康な人だけ。
と、ボクは思っています。
「ボクが」思っているだけですが。
もともとの自分の考え方のパターンと、親の教育や社会のルールが違うときに、両方が上手く受け入れられなかったり、深く傷ついたときに、自分へのダメ出しが始まるんじゃないかと思うようになりました。
自分のルールが間違っているわけじゃないのに、親の方針や社会のルールと合わないと、はじき出されて、自分へのダメ出しが始まるんですよね。
自分のルールを「間違っている」ことにしないと社会で生きていけないから。
そうだとしたら、自分が「間違っていない」ことを受け入れるために、一旦、社会のルールや親の決めつけた教育が自分を苦しめていたことをしっかり恨んだり憎んだりしないと、自分が「間違っていない」ことに気づけないんですね。
親や社会を恨んだり憎んだりするなんてダメだよね、ってさらに自分にダメ出しをすることも止まらなくなっていくわけです。
親や社会に怒りをぶつけろ、と言っているのではなく、そういう思い込まされ方が自分を苦しめていたことをしっかり知って、しっかり落ち込むことが必要だと思うんです。
そうして初めて、こう思い込んじゃったのは仕方がないんだ、自分が悪かったわけじゃないんだと思えるのだと思います。
そうすると、ダメ出ししちゃってた自分が自分で赦せて癒せるようになるんだと。
自分にダメ出しをしなくなると、そういう決めつけをした親やこうなってしまった社会のルールも赦せるようになります。
そうして自己否定満載の自分になっていってたことに気づきます。
自己肯定感を上げるには、本来の自分と違う決めつけをし続けた親や苦しいルールを押しつける社会を「正しく憎む」ことが必要なんだよね、って思いました。
「正しく憎む」ことをして「正しく挫折する」ことをきちんと出来ている人は、自己肯定感も上がり、一旦憎んだ親や社会も、自分を赦せているから簡単に赦せるんだろうな、って。
自分が「変わっていく」ことは怖いです。
「変わる」ということは新しい考え方を始めるのだから、未経験のことをするのは怖いに決まっています。
その恐怖のあまり、「変わらない」ことを選択してしまうんですね。
でも「変わらない」ことはいつまでたっても苦しいままです。
みんな恐怖のあまり苦しみ続けているんです。
「苦しい」ことは、経験済みで、ずっと耐えていたことだから怖くないのです。
「変わらない」ということは、恐怖に向き合わなくていいから楽なんです。
みなさんは「苦しいままの人生」を続けますか?
気づいて、変わって、「苦しまなくていい人生」を選びますか?
今日の「マインドスペース夢カフェ」は、ボクにいい気づきをくれたと思います。
反省点はあるけれど、いいワークショップになりました。
2014年5月5日月曜日
「頑張る」ということ
ボクは「頑張る」ことが大好きです。よく「頑張ります」と言います。
そうすると、決まって返ってくる反応が「豆腐さん、頑張りすぎてて心配」とか「豆腐さんにとって頑張るって無理することなの?」といった反応。
そこで、「頑張る」を辞書で調べてみました(笑)。
「頑張る」とは「我に張る」の転で、意味としては3つ掲載されていました。
ちなみに広辞苑です。
①我意を張り通す。
②どこまでも忍耐して努力する。
③ある場所を占めて動かない。
そうか、この意味だと、ボクはみんなが言うとおり「無理しているのかもしれないな」と思いました。
普段ボクが使っているのは②の意味。用例が書かれていたけど、「成功するまで頑張る」、まさにこの使い方です。
ボクは確かに無理するほど頑張りすぎてうつになりました。
このときは確かに無理をしていました。
ただ、今のボクは、そもそも頑張りたい自分というものを受け入れてしまったので、無理をするほど頑張りません。
多少は「無理」に近いかもしれませんが。
言い換えると、100%力が出せるとして、いつも60%くらいでやっていることを、どうしてもやりたいことに関しては,100%に限りなく力やエネルギーを注いで、成果や結果を残したいので、そうできるようにモチベーションを上げてみる感じでやってみているのがボクです。
決して、120%や150%にしようとしているのではないし、ましてや倍返しするつもりもありません。
「成功するまで」っていうのは、そもそも「成功」が「無理」だというときに、100%を超えるって解釈です。
ボクの中に、「頑張る」の中に「健気」みたいなイメージがあるのは、間違いなくボクの観念だけど、「頑張る」の中に勝手に「無理する」イメージを付けているひともそのひとの観念ですよね。
よく、うつのひとは、頑張れなくてうつになってるんだから、「頑張れ」って言っちゃダメだと言います。
総体的に見て、それはその通りだと思います。
ただ、うつになった自分は明らかに「無理」だったけど、うつの最中でもボクには「頑張れ」は励ましでした。
朝起きられたとき、食事が取れたとき、外出できたとき、眠れたときは、「よく頑張ったね」と自分に言っていました。
オリンピックのときなど、「がんばれ、ニッポン!」とかいうロゴ見ると元気出たもんです、ボクは。
そもそも悪いイメージの言葉でないのに、無理に悪いイメージの言葉を意味づける必要はないと思います。
「頑張る」という言葉自体に、良いも悪いもありません。
たまたまボクがいい意味づけをして使っているだけです。
それでボクの内面がうまくいっているのに、他人に「頑張れ」って言っているわけでないのに、それって余計なお世話だと思います。
心配してくれてるのに悪態つくようだけど。
ボクは確かに頑張りたいことに夢中になりすぎて体を壊していました。
だから「頑張る」ことに罪悪感がありました。
でも今は、ときどきやりすぎるけど、充分体を壊さないように配慮しながら頑張っています。
それがたとえ、ほかのひとにとっては「無理」なことでも、ボクには「無理」じゃないこともあります。
もちろん、一般的に見てやりすぎてることに自分が気づいてないときはありがたいし嬉しいんですが、そもそも、頑張れるエネルギー量は人それぞれなんだし、やる気を削がないで欲しいな、と思っていたりしました。
社会的に、これは「無理している」って捉えられるんだなぁ、って解釈していました。
でも、ボクは「頑張っている」人が大好きです。
そういうボクも頑張っているひとに「無理はしないでね」とやっぱり言います(笑)。
この辺は去年の11月に別のブログに書いたことです。
最近感じるのは、急にまた「頑張るな」とか、「頑張らないで自然体でいる」っていうひとがたくさん増えてきたような気がして。
ブームなんですかね。
そういう方たちが提唱しているのは、きっと無理して頑張っちゃう人に向けて言っているんだと思います。
・頑張らないと結果が出ないに決まっているから無理やりやる気を出して頑張っちゃって心や体を傷めてしまう人
・頑張らない自分ってダメだよね、って自分にダメ出しをしている人
・頑張ることで人に認めてもらおうとしている人
・罪悪感や防衛本能で頑張っている人
こういう人は「頑張る」ことをやめたほうがいいとボクも思います。
でも好きなことわくわくすることをついつい頑張っちゃうのはやればいいと思います。
ボクの場合は度が過ぎて、やりすぎて体壊すことが多かったから、ブレーキかけましたが。
最近は、やりたいことやりながら、体が疲れないように横になる時間を作るようになったから問題なくなってきました。
体休めながら、やりたいことをやることもできる方法を覚えました。
たとえば、スポーツ選手が筋肉を衰えさせないように毎日トレーニングしたり、ピアノの練習は指が忘れちゃうから毎日するとか、そういうのを「頑張れ」っていうことにはきっとみんな「頑張るな」って言わないですよね?
いつも出している力より、ちょっと余分に努力をプラスアルファしたほうが結果がうまく出ることもありますよね?
なにかの目的があって、そこに少し頑張りを入れたほうが加速がつくときは頑張ればいいんだと思います。
そこに無理が出てくるなら、頑張らなきゃいいと思います。
なんでもかんでも「頑張るな」っていうと、何もしなくなっちゃうひとがいるんですよね。
大きな勘違いだとボクは思います。
今はなんでもやってみるべきという人や、あとちょっとの努力で成果が出る人に「頑張るな」はやめてほしいと感じます。
今やめちゃいけない人が、「頑張るな」というのを読んでやめちゃうことを悲しく思います。
無理してやっている、「頑張る」ことをやめたほうがいいひとが頑張っちゃうんです。
ちゃんと意味をよく理解して自分のやり方に取り入れて欲しいとつねづね思います。
ちゃんと「頑張る」ことの苦しみも価値も両方分かっているひとは頑張ればいいのです。
それを理解しているだろうひとには、「心配」をせずに「応援」をしてあげればいいのです。
「心配」が迷惑だと言ってるのではないですよ。
「応援」が欲しくて言っているのではないですよ。
まあ、「頑張る」ひとも「心配する」ひとも「応援する」ひとも、選択する人の勝手ですけど。
あくまで、個人的見解です。
そうすると、決まって返ってくる反応が「豆腐さん、頑張りすぎてて心配」とか「豆腐さんにとって頑張るって無理することなの?」といった反応。
そこで、「頑張る」を辞書で調べてみました(笑)。
「頑張る」とは「我に張る」の転で、意味としては3つ掲載されていました。
ちなみに広辞苑です。
①我意を張り通す。
②どこまでも忍耐して努力する。
③ある場所を占めて動かない。
そうか、この意味だと、ボクはみんなが言うとおり「無理しているのかもしれないな」と思いました。
普段ボクが使っているのは②の意味。用例が書かれていたけど、「成功するまで頑張る」、まさにこの使い方です。
ボクは確かに無理するほど頑張りすぎてうつになりました。
このときは確かに無理をしていました。
ただ、今のボクは、そもそも頑張りたい自分というものを受け入れてしまったので、無理をするほど頑張りません。
多少は「無理」に近いかもしれませんが。
言い換えると、100%力が出せるとして、いつも60%くらいでやっていることを、どうしてもやりたいことに関しては,100%に限りなく力やエネルギーを注いで、成果や結果を残したいので、そうできるようにモチベーションを上げてみる感じでやってみているのがボクです。
決して、120%や150%にしようとしているのではないし、ましてや倍返しするつもりもありません。
「成功するまで」っていうのは、そもそも「成功」が「無理」だというときに、100%を超えるって解釈です。
ボクの中に、「頑張る」の中に「健気」みたいなイメージがあるのは、間違いなくボクの観念だけど、「頑張る」の中に勝手に「無理する」イメージを付けているひともそのひとの観念ですよね。
よく、うつのひとは、頑張れなくてうつになってるんだから、「頑張れ」って言っちゃダメだと言います。
総体的に見て、それはその通りだと思います。
ただ、うつになった自分は明らかに「無理」だったけど、うつの最中でもボクには「頑張れ」は励ましでした。
朝起きられたとき、食事が取れたとき、外出できたとき、眠れたときは、「よく頑張ったね」と自分に言っていました。
オリンピックのときなど、「がんばれ、ニッポン!」とかいうロゴ見ると元気出たもんです、ボクは。
そもそも悪いイメージの言葉でないのに、無理に悪いイメージの言葉を意味づける必要はないと思います。
「頑張る」という言葉自体に、良いも悪いもありません。
たまたまボクがいい意味づけをして使っているだけです。
それでボクの内面がうまくいっているのに、他人に「頑張れ」って言っているわけでないのに、それって余計なお世話だと思います。
心配してくれてるのに悪態つくようだけど。
ボクは確かに頑張りたいことに夢中になりすぎて体を壊していました。
だから「頑張る」ことに罪悪感がありました。
でも今は、ときどきやりすぎるけど、充分体を壊さないように配慮しながら頑張っています。
それがたとえ、ほかのひとにとっては「無理」なことでも、ボクには「無理」じゃないこともあります。
もちろん、一般的に見てやりすぎてることに自分が気づいてないときはありがたいし嬉しいんですが、そもそも、頑張れるエネルギー量は人それぞれなんだし、やる気を削がないで欲しいな、と思っていたりしました。
社会的に、これは「無理している」って捉えられるんだなぁ、って解釈していました。
でも、ボクは「頑張っている」人が大好きです。
そういうボクも頑張っているひとに「無理はしないでね」とやっぱり言います(笑)。
この辺は去年の11月に別のブログに書いたことです。
最近感じるのは、急にまた「頑張るな」とか、「頑張らないで自然体でいる」っていうひとがたくさん増えてきたような気がして。
ブームなんですかね。
そういう方たちが提唱しているのは、きっと無理して頑張っちゃう人に向けて言っているんだと思います。
・頑張らないと結果が出ないに決まっているから無理やりやる気を出して頑張っちゃって心や体を傷めてしまう人
・頑張らない自分ってダメだよね、って自分にダメ出しをしている人
・頑張ることで人に認めてもらおうとしている人
・罪悪感や防衛本能で頑張っている人
こういう人は「頑張る」ことをやめたほうがいいとボクも思います。
でも好きなことわくわくすることをついつい頑張っちゃうのはやればいいと思います。
ボクの場合は度が過ぎて、やりすぎて体壊すことが多かったから、ブレーキかけましたが。
最近は、やりたいことやりながら、体が疲れないように横になる時間を作るようになったから問題なくなってきました。
体休めながら、やりたいことをやることもできる方法を覚えました。
たとえば、スポーツ選手が筋肉を衰えさせないように毎日トレーニングしたり、ピアノの練習は指が忘れちゃうから毎日するとか、そういうのを「頑張れ」っていうことにはきっとみんな「頑張るな」って言わないですよね?
いつも出している力より、ちょっと余分に努力をプラスアルファしたほうが結果がうまく出ることもありますよね?
なにかの目的があって、そこに少し頑張りを入れたほうが加速がつくときは頑張ればいいんだと思います。
そこに無理が出てくるなら、頑張らなきゃいいと思います。
なんでもかんでも「頑張るな」っていうと、何もしなくなっちゃうひとがいるんですよね。
大きな勘違いだとボクは思います。
今はなんでもやってみるべきという人や、あとちょっとの努力で成果が出る人に「頑張るな」はやめてほしいと感じます。
今やめちゃいけない人が、「頑張るな」というのを読んでやめちゃうことを悲しく思います。
無理してやっている、「頑張る」ことをやめたほうがいいひとが頑張っちゃうんです。
ちゃんと意味をよく理解して自分のやり方に取り入れて欲しいとつねづね思います。
ちゃんと「頑張る」ことの苦しみも価値も両方分かっているひとは頑張ればいいのです。
それを理解しているだろうひとには、「心配」をせずに「応援」をしてあげればいいのです。
「心配」が迷惑だと言ってるのではないですよ。
「応援」が欲しくて言っているのではないですよ。
まあ、「頑張る」ひとも「心配する」ひとも「応援する」ひとも、選択する人の勝手ですけど。
あくまで、個人的見解です。
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