2014年3月28日金曜日

「セクシュアリティ勉強会 第6回平日夜の部」のご報告

また、報告が遅れてしまいました(汗)。

3月20日に「セクシュアリティ勉強会 第6回平日夜の部」を開催しました。

セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部1

今回も前回と同じ「生き方の選択」というテーマで、性同一性障害の事例の動画を見てディスカッションしてもらいました。

セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部3
セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部4

以下、参加されたみなさんの感想です。

【おのちゃん】今日は今まで参加した中で1番充実した気持ちで終えることができた思いです。そう!「自分に正直に生きる」って、「生き方の選択」の質(この言葉が100%しっくりしてないのですが思い浮かばず・・・)によるのかなって思いました。内容いっぱいで、まだ言葉にするのが難しいな・・・。
【あさみちゃん】自分と向き合うことは楽しいです!
【田村さん】「普通に生きる」って大変です。何が普通なのか?から考えてみないといけないので中々難しいです。やっぱり、自然体でいるのが大事なんだなぁって思いました。参加して少し楽になったし、楽しい時間が過ごせました。
【MuMuさん】とても自然に入り込んで行きました。そしてとても深く・・・。「自分に正直に生きる」「周りとの関係を壊す」この言葉にハッとしました。壊れたかもしれないものが壊れていなかったことがわかる時期に来ているかもしれない!!と思いました。
【さっちゃん】参加者の方がみんな正直に語ってくれました。こういう場は必要だと改めて感じました。自分を大切にできるような生き方を選択したいです。


セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部7
セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部5


今回は、6名の方にご参加いただきました。
生き方の選択」とは「男として生きる道を選択する」とか「女として生きる選択をする」とかではなく、「自分の本当の気持ちに従った生き方を選択する」という視点でシェアしました。

セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部8

今回は2011年12月23日に第1回目の「セクシュアリティ勉強会」以来、定例会・平日夜の部・大阪の部・東京の部含め22回目の勉強会でした。
一旦、ここで「セクシュアリティ勉強会」は終了し、来月からはじぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」の「マイノリティスタディルーム」の中に組み込まれます。
同じような進行で、これからは間口を「セクシュアリティ」から「マイノリティ」に広げ、当事者としてもまた非当事者としても講師をすることになります。

締めくくりの勉強会として、感慨深いものがありました。
いつまでもこの姿勢で頑張りたいと思います。

セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部2
セクシュアリティ勉強会第6回平日夜の部6

参加者のおのちゃんから、ご苦労さまのお花とお菓子をいただきました。
めちゃくちゃうれしかったです。
おのちゃん、ありがとう。

そして、ほかの参加者のみなさんもありがとうございました。

2014年3月14日金曜日

自分で自分を虐待する

昨日は「中立になるということ」「自己理解をするということ」について書きました。

実は、それだけじゃなくて、続きがあります。
ここも、あくまでボクの持論なので、その辺を了承して読んでくださいね。

自己理解」をいくら深めても、それは自分のことをよく知ったというだけで、それだけではコミュニケーション行動の選択まではうまくいきません。
自己理解」のままで信念を貫き通し、わがまま自分勝手利己的に振る舞っていても理解されたり応援されたりということはなかなか難しくて、ひとりよがりになるばかりです。

自分を理解したように、相手も思いやり、相手の立場になってひとやモノや出来事を見て、同じように「相手理解」をすることがコミュニケーションを良くすることだと思っています。
ひとによって価値観(この言葉はあまり好きではないですが)はさまざまで、ひとがそれぞれのものさしでそれぞれの価値観を構築して生きやすく決断していくようになるのには、そのひとの育てられ方・環境・もともとの性格などいろいろな背景があります。
だれも同じ価値観は持っていない、ひとそれぞれ考え方が違っていて当然だということが腑に落ちていないとうまくいきません。

相手を傷つけないように、しかも自分の気持ちに正直に、でも押し付けず、寛大に感謝の気持ちを持って、それでもわがままにも自分勝手にも利己的にもならず自分をきちんと伝えないとうまくいきません。
自分に嘘をつかずごまかさず相手を受け入れながら、「自己開示」もしていくということは至難の技です。
ボクも四苦八苦します。

でも、考えてみれば、「自己理解」をした作業を相手にもするだけのことです。
自分を深く理解すること」が苦なくできるようになっていれば簡単なことなのです。
価値観の違う相手をすべて完璧に理解することそのひとではないからできません。
大事だと思うのはその「理解をしようとする姿勢」「受け止めようとする姿勢」だと思うのです。

自分」という輪と「相手」という輪の重なる部分は、「自己理解」と「相手理解」と「自己開示」の繰り返しで大きくなっていきます。
相互の「理解しよう」という姿勢がないと輪っかの重なりは大きくなっていきません。
その重なりがコミュニケーションであり関係性の構築だと思っています。

では、相手がその姿勢を見せないときはどうしたらいいのでしょう。
それでもボクは「自己理解」と「相手理解」と「自己開示」に努めます。
相手の価値観を変えようとするのは、自分の価値観の押し付けだからです。
ひたすら、「相手理解」に努めていると、相手もだんだん関わってくれるようになるんですよね。
まあ、もちろん埒が明かないときは関係性の構築をボクもよく諦めますけど(笑)。

そして、コミュニケーションがうまくでき、ひととの関係性が構築されたとしても、われわれは自分と関係性ができただれかとだけで生きていけるわけじゃありません。
よりよく自分が生きていくためには、今、社会がどういうルールやモラルや価値観の中で存在していて、その中で自分がどんな立ち位置にいるのかをよく見極めないと、よりよい行動の選択はできません。

昨日、ボクは「いい」「悪い」や「正しい」「間違い」のジャッジのない「中立」な感じが大事だと思うと書きました。
でも、社会には悲しいかな極悪非道な方もいらして、ある程度のルールが決まっていて、それを守らないといけないようになっています。
法律がたとえちょっと自分に都合が悪いものだとしても、それが改正されるまでは、法律に従って守らないと罰せられます。
そこは「知らなかった」と言っても通用しないのです。
法律になっていない暗黙のルールもあります。
だからいろんな人がいて、いろんな価値観があることを、ある程度わかっていないと社会では生きていけません。
それをボクは「社会理解」と呼んでます。

その社会のルールが今の時代に合っていないこともあるし、不公平で認められていないところもあります。
もちろん、それが多くの人びとの生きやすい社会になるようにどんどん変わっていけばそれに越したことはありません。
でも、今のルールがとりあえずある程度平均的なものさしで計られて決められた法律だったりルールだったりするわけです。
そこもそう簡単には変わりません。
自分がそこに合わせて対応を変えていくだけだと思っています。
自分を曲げろというのではなく、自分を大切にする気持ちは忘れずに、我慢にならない程度の妥協や抑制をしながら、我慢の溜まってしまう抑圧にならないように、周りや世の中や社会を見ながら、いちばん生きやすくできそうな「行動の選択」をしていくのが結局のところいちばん楽になるのだと思っています。
自分」という輪と「相手」という輪の重なり部分を多くするようなことをしながら、そこにもうひとつある「社会」という輪の3つの価値観の輪が重なっている部分で行動の選択をしていくのがいちばん生きやすいと思っているわけです。

ボクは、何か新しい重要な行動を起こすときは、この3つの輪を意識しながら行動の選択をしています。

そんな七面倒臭いことをみんなやっているかといえば、おそらくやっていないと思います。
でも、残念ながらボクは多くの人と違う価値観を持ってしまったマイノリティだから、この作業をしないとなかなかことがうまく運んでいかないんですよね。

多くのことを直感で「なんとなく」楽しそうなことだけやっていてもうまくいってそこそこ幸せなのであれば、その直感で生きていっても問題ないと思います。

でも、ちっともうまくいかない人はどこかに必ず「思い込み」や「決めつけ」があります。

コミュニケーションがうまくいかない、行動の選択が苦しかったり何度も同じ失敗になるということは、「自己理解」か「相手理解」か「自己開示」か「社会理解」のどこかに歪みがあると思っています。

少し、昨日の続きになりますが、深く「自己理解」をした本当の自分の気持ちを、「相手理解」「自己開示」「社会理解」をせずに、わがまま自分勝手利己的に出しているとそりゃあうまくいかなくなりますよね。

その、うまくいかないときに、多くの人が、相手や社会に合わせているふりをして、もっというと相手や社会の無理解のせいにして、せっかく「自己理解」した自分のいちばん大切な気持ちを諦めたり、自分のいちばん大切な気持ちに蓋をしたり、自分のいちばん大切な気持ちをなかったことにしたりしてませんか?

それって、自分のいちばん大切なところを無視している、自分に対する冒涜虐待自分でしていることだと思うんです。
自分に嘘をつく自分をごまかす…それは苦しいはずです。

「人の命の大切さを大事にしたい」「病に苦しむ人を助けてあげたい」大切な気持ちが根底にあって「お医者さんになりたい」と思っている人が、金銭的な理由や勉強が苦手で医大に行けなかったときに、「医者に向いていなかった」ことにしてませんか?
そうだとしたら、看護師でも介護士でも薬剤師でも本当の気持ちに近い気がするし、もっと言うとドラッグストアの店員でも本当の気持ちは貫けないでしょうか?
それを押し殺してサラリーマンになったりしてしんどいことになっていませんか?

本当は生き生きと働きたいと思っている主婦が、子育てや夫の無理解を理由に「良妻賢母なタイプ」だったことにしてませんか?
そうだとしたら、本当の気持ちは理解してあげておいて、今は子どもや夫のためにあえて時期じゃない別の行動の選択をしていると思っておくだけでいいのです。
いつか、子育てが終わり夫の理解が得られたときのために気持ちを大事に温めておくだけでいいのです。
無理に良妻賢母を演じるから辛くなるのです。
夢を持った生き生きしたお母ちゃんであり凛とした妻であればいいのです。

せめて自分だけは自分をいちばんよく知っている自分の理解者になってあげたら、たとえいろいろうまくいかなくても大丈夫だと思うんです。
だって最高の理解者が自分の中にいるのですから。

どうかみなさん、自分が自分の最大の敵にならないように、よく「自己理解」をしてあげてください。
自分を大切にしてください。
自分の心からの叫びを無視せずに受け取ってあげてください。
たとえそれが途轍もなくしんどいことであっても、自分だけは気づいてあげてください。

そして、自分を虐待しないでください

ボクはこれをじぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」で伝えていきたいと思います。

また、長すぎました(笑)。
最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年3月13日木曜日

中立になるということ

最近、ボクが自分を保っていられるのは、この「中立」な感じを自分なりに持つことができたからです。
中立」がわかりにくければ、「ニュートラル」な感じといえばいいんでしょうか。
コーチングスクールではそういう言葉の表現で教えてもらいました。

今、書こうとしていることは、スクールで教えてもらったことというより、それを知ったうえでボクが自分の中に腑に落とした部分なので、ボクの考え方として捉えてくださいね。
今の時点でボクが思っていることをうまく表現できるかどうかわかりません。
かなり感覚的な部分なので。
ただ、勉強会の報告などを書いている状態で、そろそろ現時点での今のボクの感覚を表現していかないと、ボクのやりたいことやこれからやろうとしていることは伝わっていかないと思ったので、あえて書いてみることにしました。
じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」を立ち上げるうえでもね。

最近よく、ボクは「豆腐さん、メンタル強いね」とか「豆腐さんって、厳しいね」って言われます。
自分では、自分のことを「強い」とか「弱い」とかあまり思っていません。
結構弱い部分満載です(笑)。
ただ、言えるのは、ボクが自分のことを「強い」部分も「弱い」部分も持っていると思うし、「強い」からいいよね、とか、「弱い」からダメだよね、とか、思っていないということです。

中立」や「ニュートラル」は、「いい」「悪い」や「正しい」「間違い」のジャッジをなしに、状態として受け止める、もしくは受け入れることだと思っています。

弱い」のが嫌だったら、強くなろうと努力すればいいし、そのままでいいと思えば、強くないとできない部分は「強い」人に頼ればいいと思います。
そこにまた、「頼るなんて弱いよね、そんな自分ってダメだよね」ってジャッジが入っちゃうから、「強くならなければいけない」という思いが出てくるし、「弱い」自分をダメだと思っているから強くなることにハードルの高さを感じてしまって、より強くなれなくなっちゃう、っていうパターンに陥っちゃうわけですね。
しかもここには「頼ること」は「弱い」という決めつけがあるし、「弱い」ことだから「頼る」こともダメだよね、って思っちゃってるから、頼れなくなってしまう。
そしてさらに「強い」人に憧れを持ち崇めてしまい、自分はできないことだからと劣等感を持ってしまう。
さらにまた「こんな自分ってダメだよね」ってなってしまう(憧れたり崇めたりするのがいけないといっているのではないですよ)。

この連鎖が苦しみを生むと思うんです。

頼る」という言葉には、「自発的にできない」という側面もあるけど、「それだけ人を信頼している」とも言えます。
頼る」ことは「いいこと」でもあるし「悪いこと」でもあるけど、もっと言っちゃうと、「頼る」ことは状態であって、「いいこと」でも「悪いこと」でもない、っていうふうに思えたら「自分をダメだ」とは思わなくなるっていうことです。
それを決めつけて思い込むから、ダメ出しが始まるんですよね。

ジャッジを全くするな、というのではなく、人は何かを判断していくときに、どっちがいいかを判断して選択をしていると思います。
ただ、自分の判断で何度も同じ失敗を繰り返してしまうときには、そこに偏った思い込みがありませんか?と自問自答しないと失敗は続くと思うんです。

よくボクは、直感だけで動く人を苦手だと言っています。
苦手という表現を使っているけど、きっとボクはそういう人があまり好きじゃないんだと思います。
直感でうまくいっていればそのままでいいんだけど、その直感でいつも前に進めなくなるんだったら、「なんとなく」嫌だからその選択をしない、ってのはちゃんとその「なんとなく」を見つめたら解決することが多いと思っているわけです。
その「なんとなく」に変な劣等感や罪悪感やコンプレックスがくっついていないですか?
その劣等感や罪悪感やコンプレックスが「なんとなく」嫌だと思わせていませんか?
を問いたくなります。

先日。ボクは、Facebookにこんな書き込みをしました。

うつをどうしてもやめたくなって、カウセリングを受けながらNLPを学んだ。
自分と向き合いたくなり、コーチングを学んだ。
違和感と向き合わざるを得ない状況になり、鏡の法則に徹して成長した。
成長段階で、次元が上がると、鏡の法則では腑に落とせなくなり、パラレルワールドに没頭した。
すべてを受け止めきれなくなり、 女性性を高めることに挑んだ。
思考の現実化も統合もわかるようになってきた。
物事が解決しないことも、科学で解明できないことも、なんとなく理解した。
頼ることも、完璧主義を緩めることもやってきた。
中立感を実感した。
どんなに頑張っても結果がすぐついてこないことも受け入れた。
諦めることを覚えた。
そして、諦めない自分も受け入れた。
結果がついてこないときに人や物事と関係することも自分なりに取り組みだした。
もうこれ以上何をどうしていいかわからないのもなくなってきた。
どこに挑戦し、どこで流れに乗るかも、感覚がつかめた気がする。
もう自分の哲学や思想は固まった。

それでも、まだまだな自分もいっぱいいる。
まだまだやることは出てくるかも知れない。

だいぶ、理想に近づいたけど、
自分のこと大好きだし、大切にできているけど、
傲慢にならないように、天狗にならないように、謙虚でいようとする自分が、いろいろブレーキをかける。

でも、もっと自分を信頼し、もっと自分に自信と誇りをもつ許可を出していいと思う。
今はなんだかそう思う。


うつをやめようと思ったときは、まだ「うつなんてダメだから」「うつなんて弱い自分だから」と思っていました。
そこから脱出するために学ぶうち、ボクの過去の人生は、ダメ出しにダメ出しを上塗りし、そんな自分を受け入れられず否定しまくって、そんな自分には蓋をし、隠し続けて、自分の強いところ、闘えるフィールドで優越感を味わおうと必死でした。

その最たる部分が「同性愛者である」自分を「受け入れられない」ことでした。

受け入れられない自分はひた隠し、「普通」を装える自分を前面に出し、弱くないと思っている部分はとことん強くなってやろうと思いました。

仕事、マラソン、料理などの得意分野で、人からの評価を気にしながら、まだダメ、まだ弱い、と自分を追い込み完璧を目指し、そのうち、その無理矢理な頑張りを受け止められなくなった心と体は壊れていきました。

結局のところ、いくら頑張っても、結婚し子供を作り子孫を残し苗字と墓を守ることで幸せになって欲しい親の期待は、他のものでは変えられませんでした。

母の介護がピークに来て、母の期待に沿うどころか、うつで面倒も看られなくなり、特別養護老人ホームに追いやった罪悪感に駆られました。

うつから脱出しようと思って、自己啓発な学びをして、結局ボクは、親の期待に応えられない自分を受け入れて、「それはできない、無理なんだ」と言う選択しかありませんでした。

周りから「気持ち悪い」と言われ続け、「本当に男が男を好きになること」に罪悪劣等を感じなければいけないのか、すべての自分の中のこだわりを捨てて考えたとき、ボクはそれが、「社会の決めつけ」であることに気づきました。

ひとを好きになるのに、性別は関係ないはず

ここから、ボクの自分を受け入れる作業が始まりました。
ゲイである」ことが苦しくなくなりました。
むしろ、ゲイだからこそ感じられるものがあると気づきました。
ゲイでなければ経験できない貴重なものがあることに気づきました。
ゲイであることがだんだん誇りに思えるようになってきました。

ボクは自分の全部を受け入れるためには、母にカミングアウトをする以外、考えられなくなりました。
しかし、それは自分のわがままを貫くだけではないのか、母はショックを受けて苦しむだけの結果にならないか、死ぬほど苦しい局面で究極の選択をしました。

でも、ゲイである自分受け入れたボクには、そのことを伝えるとき、もはや母に対する苦しみは「ゲイに産んでくれてありがとう」の感謝に変わっていました。

結果、母はボクのカミングアウトによって、「自分の介護で息子をうつにした」という勘違いからくる罪悪感から解放されることになりました。
まあ、ここはおまけでついてきたことではあるけれども。

これがまだ2011年12月のハナシです。

うつになったことも結局同じでした。
うつであった」ことが苦しくなくなりました。
むしろ、うつだったからこそ感じられるものがあると気づきました。
うつでなければ経験できない貴重なものがあることに気づきました。
うつであったことを乗り越えたことがだんだん誇りに思えるようになってきました。

でも、自分を受け入れ堂々と生きられるようになってからも、ずっとずっとまだまだやってくる違和感に向き合い続けてきました。
自分をごまかしていることに気づくたびに、逃げずに向き合ってきました。

そうして、やっと去年の秋に完全に腑に落ちたことが、物事にも出来事にも「いい」「悪い」や「正しい」「間違い」はないということ。
それは社会が作った「決めつけ」であること。
そして、さらに自分のなかに「思い込み」を作ってしまうことが起こしていること。

自分の中に、自分が苦しくなるような「決めつけ」や「思い込み」を自分で作っていたことに気づけば、苦しいことは何もなくなり、恥ずかしいことも何もなくなるのです。

そして、つい先日のFacebookの投稿のときに、この感覚があれば、「傲慢にならないこと」「天狗にならないこと」「謙虚でいなければならないこと」に縛られてまた苦しくなる必要もない気がしてきたわけです。

中立」を手に入れるためには、相当なしんどさがつきまといます。
もしかしたら、しんどすぎて受け入れられなさ過ぎて、死にたくなっちゃうかもしれません。
でも、これを手に入れたら、苦しいことなんてなくなります。
苦しむことが素晴らしいものだとさえ思えるようになります。

本当は心の奥が苦しんでいるのに、蓋をして明るいふりをして、「なんとなく」で生きるということが、いかに自分の本心をないがしろにし、いかに自分に不正直であるか、考えてみてください。

そして「中立」を手に入れたら、なんでも「受け入れられる力」をつけたら、怖いものなど何もないのです。
びくびくして生きなくていいんです。

みんな、自分の本心には自分自身が味方であってください。
自分自身を大切にしてください。
せめて、自分だけは自分自身をわかって守ってあげてください。

ボクの言う「自己理解」とはそういうことです。

長すぎました。
読んでくれてありがとう。

2014年3月6日木曜日

「第14回セクシュアリティ勉強会」のご報告

また、報告が遅れてしまいました(汗)。

3月1日に「第14回セクシュアリティ勉強会」を開催しました。

第14回セクシュアリティ勉強会1

今回は、「生き方の選択」というテーマで、性同一性障害の事例の動画を見てディスカッションしてもらいました。

第14回セクシュアリティ勉強会2

以下、参加されたみなさんの感想です。

【Nikkohさん】少数精鋭で、たいへん内容の濃い勉強会でした。疲れましたが、来てよかったです。貴重な場です。家に帰ってから振り返るのがとても楽しみです。新プロジェクトのほうも期待しています。
【さっちゃん】参加者で意見が割れて、ディスカッションとしてすごく面白かったです。自分の経験や感情を動画と重ね合わせながら見た上で、更に豆腐さんの講義を踏まえて、全員の意識が前に進もうとしているのが感じられました。簡単には答えられないテーマだったけど、長く自分の中に残る内容だと思います。


第14回セクシュアリティ勉強会3

今回は、アンケートで感想をいただいた Nikkohさんのみの参加でしたが、3人のクルーがいたので、なんとか勉強会は成立しました(笑)。
生き方の選択」とは「男として生きる道を選択する」とか「女として生きる選択をする」とかではなく、「自分の本当の気持ちに従って生き方を選択する」という視点で勉強しました。

第14回セクシュアリティ勉強会4

もちろん、テーマに沿った動画の内容できちんと講師をしたんだけど、Nikkohさんが常連だったこともあり、これまでの勉強会やもくもく会(セクシュアリティ勉強会実行委員会)だけではなかなか伝えきれない、この勉強会や今後の「じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』」で、何を伝えていきたいかをしっかり講義させてもらいました。
クルーとして、何かをボクから導いてもらえるというような漠然とした信頼でなく、ボクの目指す完成型がどんなヴィジョンなのか、それを知って、本当に意味のあることをしていると感じてもらえるのかを感じながら話してみて、またシェアをしてもらって、クルーも参加者も意味を感じ、ボクもこれを広めていきたいという確信を持つことができた、非常に充実したすばらしい勉強会になったと思ってます。
みんなには、いっぱい考えてもらって疲れさせてしまったり、しんどい思いをさせてしまったりしましたが、本当にやってよかったと思います。
今回これをするために参加者が少ない状態になるべくしてなった気がしました。

第14回セクシュアリティ勉強会5

あと、残り1回になった「セクシュアリティ勉強会」ですが、これで終わりではありません。
しっかり「しろにじカーサ」に繋いでいけるように頑張ります。
すばらしい新プロジェクトになるように、全力で頑張りたいと思います。

これが、ボクの「生き方の選択」だと思えました。

参加してくださったみなさん、ありがとうございました。