2009年11月17日火曜日

愛についてのキンゼイ・レポート

 インディアナ大学の動物学の助教授であるアルフレッド・C・キンゼイは、父親との確執があった。エンジニアであり、教会の日曜学校で講師を勤めていた父はあまりに厳格で、性に対して極めて禁欲的だった。アルフレッドと弟ロバートとを自分と同じエンジニアにするため工科大学への進学を勧めるが、幼いころから単独で生物の観察に勤しんでいたアルフレッドは生物学への傾倒を抑えがたく、密かにた貯め込んでいた奨学金でボードン大学に再入学、父と訣別した。生物学と心理学を修め、更にハーバード大学で分類学博士号を取得すると、インディアナ大学で教鞭を執るようになったアルフレッド・キンゼイ博士は、タマバチ研究に全精力を傾注する。最終的に10万匹に及ぶ個体を標本として採集し、その多種多様な生態を分析した博士は、タマバチ研究における第一人者としての地位を確立する。変人であったが学生と親しく付き合った博士は、“Professor Kinsey”を略した愛称プロックの名で呼ばれ、学生達から慕われていた。そんな教え子のひとり、クララと恋に落ち結婚。だが、そんなふたりに立ちはだかった最初の障害は、父の存在ではなく、セックスの問題だった。どうしても痛みを伴うクララに無理強いは出来ず、遂にキンゼイは専門家に相談するという、単純なようでいて、当時の価値観からすると革命的な発想に辿りついた。そうして性に関する問題を克服したふたりは、より深い絆で結ばれることとなる。同時に妻との新婚当時の経験から、キンゼイは大学で性の悩みを持つ同僚や学生達の相談に乗っているうちに、結婚講座を開講するが、セックスをもっと科学的に研究する必要があると感じ、各地を旅しながら様々な1万8千人もの人々に350の質問を投げかけ、にインタビューを試みる。助手たちにも、個別面接で「性」のデーターを収集するよう命じる。助手たちはキンゼイと面接の方法を試行錯誤する。1948年出版の「キンゼイ・レポート」は世界中にセンセーションを巻き起こすと同時に、キンゼイの人生を変えてしまう。数々の苦難を乗り越え、キンゼイはの真実を見出すことができるのか。
 1万8千人にインタビューを行い、「性」の実態のリサーチに生涯をかけた実在の学者、キンゼイ博士の生涯を描いた感動作。『シンドラーのリスト』のリーアム・ニーソンがキンゼイ博士を演じる。本作でゴールデン・グローブ賞にノミネートされた。監督は『ゴット・アンド・モンスター』のビル・コンドン。製作総指揮にフランシス・フォード・コッポラが名を連ねている。本作でゴールデン・グローブ賞、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされたローラ・リニーの熱演に注目。

 今でこそ、赤裸々なSEXレポートが普通の女性誌に登場する時代だが、この映画の舞台となる今から50年前のアメリカは、そんな話はとんでもなく御法度。そんな時代に、性の実態のリサーチに本気で取り組み、生涯を捧げた実在の学者・キンゼイ博士の波乱の生涯を描いた伝記映画だ。本業は動物学者のアルフレッド・キンゼイ博士が、自身のSEXの悩みで医者の門を叩いたことから、「性」体験の実態に興味を持ち始める。その心は、人は千差万別、人と違って当たり前。それを知らずに悩める人々の助けになれば、と始まった調査。独自のインタビュー方法を編み出し、多くの男女から様々な性の実体験、人には言いづらい秘密を調べ上げ、まとめた「キンゼイ・レポート」は驚異の大ベストセラーに。ところがあることがきっかけで、彼の栄光は失墜する。研究にのめりこむあまり、人間社会の倫理を踏み越え、夫婦間以外のセックスを是としたりする研究員らの関係は、やはり衝撃的だ。特に驚くのが、アメリカ社会の、セックスに対する閉鎖性だ。男性の性意識調査を拍手で迎えた社会が、女性版になるとバッシングの嵐に変わる。自由の国アメリカは、同時にセックスを罪悪視するピューリタンの国でもあったと、今さらながら痛感させられた。どんなセックスにも偏見を持たなかったキンゼイを、今、描く意味がある。それにしても、興味や疑問を持つと追跡調査&実験してみないと気がすまない、キンゼイの学者キャラが面白い。元々彼には同性愛の志向もあったらしいのだが、助手の一人がゲイと知り、さっそく実験に及んでしまうシーンもある。しかし物語は、博士と妻クララの強い絆と愛、それゆえの葛藤を軸に、研究に没頭する彼が行き着く先まで、追いかけていく。そこに真実の愛の重みと感動がある。リーアム・ニーソンとローラ・リニーの芸達者が、若年から老年までを演じ切り、魅せる。

 ここで、ちょっとゲイブログらしいエピソードを書くと、途中生徒と関係を持つシーン、クリス・オドネルの全裸シーンがモザイクもなしに出てくる。びっくりした。ここはゲイ必見かもしれない。
 結果、辿り着いたのは、人間は一人一人違うのが当たり前だということだった。性行為の分析を通して、人間には"多数派と少数派"が存在するだけで、"ノーマルとアブノーマル"という分け方はないと主張したのだ。それは、"自分らしく生きたい"という、現代社会では誰もが抱く願いを持つ人々に、勇気と希望を与えたのだ。そしてさらに、結局人間にとっていちばん大切なものは、科学では測定不可能のだという、たったひとつの答えにたどり着いたのだ。依然困難の予想される未来を前にしながら、穏やかな境地に辿りついた彼の姿を遠く追って物語は幕を引く。


◎作品データ◎
『愛についてのキンゼイ・レポート』
原題:
Kinsey
2004
年アメリカ・ドイツ合作映画/上映時間:1時間58

監督:ビル・コンドン

出演:リーアム・ニーソン, ローラ・リニー, クリス・オドネル, ティモシー・ハットン, ジョン・リスゴー

2009年11月13日金曜日

橋口亮輔

 橋口亮輔は1962年7月13日長崎県出身の日本の映画監督、脚本家。大阪芸術大学映像計画学科中退。高校1年生の頃から自主制作で映画を撮り始め1985年に映画監督・脚本家として活動を始める。1989年、ぴあフィルムフェスティバルに出品した『夕べの秘密』がぴあフィルムフェスティバルアワードグランプリを受賞して高く評価を受ける。テレビ局でアシスタントディレクターの活動を経て、1992年にぴあフィルムフェスティバルスカラシップを得て映画撮影を再開。1993年に『二十才の微熱』で劇場映画監督としてデビュー。この頃自身がゲイであることを公表。1995年『渚のシンドバッド』がロッテルダム国際映画祭でグランプリとトリノ国際ゲイ&レズビアン映画祭グランプリを、国内では毎日映画コンクール最優秀脚本賞とキネマ旬報ベストテンで第10位と評価された。2001年『ハッシュ!』はカンヌ国際映画祭において監督週間部門正式招待作品となった他、ヨコハマ映画祭ベスト10第1位と監督賞、キネマ旬報ベストテン第2位と高く評価された。この辺では必ずテーマや背景に同性愛を取り上げ、精力的に啓発を続ける。その直後にうつ病を経験したと言われているが、完治後はその体験を生かし、2008年『ぐるりのこと。』を発表した。この『ぐるりのこと。』は毎日映画コンクール日本映画優秀賞と最優秀脚本賞受賞、山路ふみ子映画賞、報知映画賞監督賞受賞、ヨコハマ映画祭ベスト10第2位、キネマ旬報ベストテン 第2位とすべての作品が評価されている。俳優としても『渚のシンドバッド』に精神科医師役で出演するなど、各作品でカメオ出演している。

すべての作品が心痛いが、特に『ぐるりのこと。』は興味深い。事件を客観的に写しとる法廷画家という職人の視点と、鬱病の妻を支える夫の視点、ふたつの視点を絡め社会の闇を浮き彫りにしながら、人の生き方を問う。橋口亮輔監督の6年ぶりの新作だった。「鬱病や訴訟問題に巻き込まれた私自身の辛い経験がこの作品に結実したと思う。6年は無駄ではなかった」と監督は振り返っている。仕事にあぶれ、靴修理屋でアルバイトをしている画家のカナオは知人の紹介で、公判中の被告人をスケッチする法廷画家の職に就く。妻、翔子は出版社の編集者。2人の幸せな暮らしは翔子の流産で歯車が狂い始める。世界が認めた『ハッシュ!』から新作完成まで6年を費やしている。監督は自分やその周囲で起こったこと、さらに社会で起こった事件や事故を、「鬱病」や「法廷画家」というキーワードに絡めとりながら脚本に仕上げていった。 キャストで異色なのは主人公にイラストレーターのリリーを指名したこと。かつて、一緒に仕事をした経験と彼の小説「東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン」を読んで、この人しかいないと思ったという。リリー・フランキーも返事をするのに3カ月悩んだという。さらにこだわったのが妻役の木村多江の配役。彼女を待つため、撮影スケジュールを遅らせたという。ふたり以外では撮れなかったと語る監督。カナオが傍聴する裁判はいずれも社会を震撼させた事件がモチーフになっている。地下鉄サリン事件、連続幼女誘拐殺人事件、大阪・池田小事件、等々。監督はこれら事件にかかわる膨大な裁判資料を読み込み、巧みに映像化していくことで、当時の社会の闇をあぶり出すように描きあげた。個人的に訴訟にも巻き込まれ、そんな時期に耐震偽装問題が起こり、監督は窮地に陥る。なぜ落ち度のない人間がつらい状況に陥らなければならないのか。自分の人生と社会がシンクロしていったというのだ。いつから日本人はこんな風になってしまったのか。法廷画家として、ひとりの男として。カナオは不正や悪、理不尽さから目をそらさず、素直に嘆き、怒り、真正面から社会と対峙する。カナオの心の叫びを橋口はつぶさにフィルムに焼き付けていく。

この映画で初めて同性愛を問わない映画に仕上げた。新しく、鬱という彼にとっての問題点が露呈してきたからだろうと思う。このブログにいちばん関係のない映画のことをたくさん書いてしまったが、それまでの監督の作品、これは同性愛者は必見である。監督の生きざまそのものがスクリーンから溢れだしてきているから。

2009年11月8日日曜日

めぐりあう時間たち

 3つの時代の、3人の女たちの、それぞれの1日が始まろうとしていた。1923年、イギリスのロンドン郊外、リッチモンド。作家であるヴァージニア・ウルフの病気療養のため夫妻で移り住んできた。物静で優しい夫のレナードをよそに、彼女は書斎でゆっくりと呟く。「……ミセス・ダロウェイは言った、花は私が買ってくるわ」。傑作「ダロウェイ夫人」が仕上がろうとしていた。1951年、ロサンゼルス。閑静な住宅地に住む主婦ローラ・ブラウンは、ベッドの中で1冊の本を手にしている。「……ミセス・ダロウェイは言った、花は私が買ってくるわ」。ローラは夫ダンの求める主婦像を演じることに疲れ果てていた。夫の誕生日、パーティのために息子リッチーと一緒にバースデイケーキを作り始めた。そして現代2001年、ニューヨーク。編集者クラリッサ・ヴォーンは、同棲している恋人サリーに言った。「サリー、花は私が買ってくるわ」。エイズに冒されている親しい友人の作家リチャードが栄誉ある賞を受賞したのを知り、元気付けるためにクラリッサは祝賀パーティを企画した。話は戻って同じ日のヴァージニア、自宅に、姉のヴァネッサが訪ねて来た。ロンドンでの話に花を咲かせる。夕方、突然ヴァージニアはロンドンに向うため駅へと向かった。後を追った夫レナードに、すべての苦悩を爆発させるヴァージニア。彼は彼女の叫びにロンドンへ戻ることに同意するのだった。ローラは息子と作ったバースディケーキがうまく仕上がらず、いらつく彼女のところへ親友のキティがやってきた。キティを見送った後、綺麗にバースデイ・ケーキを作り直せたローラは、ある決意を胸にノルマンディ・ホテルへと向かった。クラリッサはパーティの準備をしていた。リチャードの元恋人ルイスが訪ねてきた。ルイスとリチャードは、昔話をし始めた。懐かしい日々の話を聞いてクラリッサは泣き始める。昔、リチャードが自分につけたニックネーム「ミセス・ダロウェイ」を忘れられず、彼の世話を何年も続け感情を抑え込んで生きてきた。夜が訪れる。3つの時代の、3人の女たちの1日は、それぞれ終わりへを迎えていた。時間・場所の違う3人の女性の1日がはじまり、終わり、「ダロウェイ夫人」を通じて3人の関係が繋がっていった。
監督は『リトル・ダンサー』のスティーヴン・ダルトリー。『めぐりあう時間たち』『愛を読むひと』と監督作3作ともがアカデミー賞で作品賞と監督賞にノミネートされている。本作ではアカデミー賞で9部門にノミネートされ、特殊メイクをしてヴァージニア・ウルフをそっくりに演じたニコール・キッドマンがアカデミー主演女優賞をはじめジュリアン・ムーア、メリル・ストリープの3人ともが数々の演技賞を受賞している。3人は、それぞれ設定が違う時代だったため、撮影でいちども顔を合わせなかったらしい。当初はアンソニー・ミンゲラが監督する予定だった。
時を超えて企画される3つのパーティ。ひとつは1923年ロンドン郊外、「ダロウェイ夫人」執筆中の作家ヴァージニア・ウルフが姉とティータイムをするため。ひとつは1951年ロサンジェルス、「ダロウェイ夫人」を読む妊娠した主婦ローラが夫のために催す誕生パーティ。そして現代、2001年ニューヨーク、「ダロウェイ夫人」と同じあだ名を持つ編集者クラリッサのエイズで死に行く友人の作家を祝福するために受賞パーティ。それぞれの時間に生きる3人の女が、「ダロウェイ夫人」をキーワードに繋がってゆく。自分の居場所を見つけ、自分らしく生きていく人生を送るのは、難しい。映画はある1日を引きずり出して、我々に問いかける。ケーキをつくるのは夫を愛している証拠と息子に言いながら主婦ローラは、誰のために生きているかわからない。何年も自分を抑えながら愛する友人の看護をするクラリッサは、それでも自分の思い通り人工授精で娘を産んでいたりもする。精神を患い、夫を思う作家ヴァージニアには自ら死を選んでいく方法るしかなかった。人は皆、多かれ少なかれ、自分の生きている時間と周囲に縛られて生きている。その中で、どう考え行動するか、強く訴えかけてくる。時間軸が飛び交い疲れそうに思うが、実によく整理され、テーマは難解でありながら、オープニングからクライマックスまで一気に引き込まれてゆく。とても知的な映画であり、深いテーマを持っている。3つのエピソードが絡まっていく構成と主演女優たちのアンサンブルが実に見事であり、脇を演じるエド・ハリス、トニ・コレット、クレア・デーンズ、ミランダ・リチャードソンなども素晴らしい。ボクは中でもエド・ハリスを評価したい。生と死、家族、愛、セクシャリティ、孤独といった事柄が彼によって重量を増したと思う。地味にスルーされているが、もっと評価されていい映画だと思う。
と、ここで、このブログに何が関係してくるかというと、エド・ハリス演じる作家のリチャードだ。彼はエイズに侵されている。この物語の中で、彼の存在はなくてもいいような脇役に感じる。しかし、そうではない。彼は、メリル・ストリーぷ演じるクラりッサと、ローラとヴァージニアを繋ぐ「ダロウェイ夫人」というキーワード、クラりッサにリチャードがつけた「ダロウェイ夫人」というニックネームがなければ3人は繋がらないのだ。リチャードは自分の短い先の人生を儚んで、目の前で窓から飛び降り、自殺を図る。これは、クラリッサにとってあまりにもつらい出来事なのだ。リチャードを理解してくれる数少ない人間たちの相関図を、リチャードの目線からも見てほしい。そう思って取り上げた。あまりにも悲しい末路なのだから。

◎作品データ◎
『めぐりあう時間たち』
原題:The Hours
2002年アメリカ・イギリス合作映画/上映時間:1時間55分
監督:スティーヴン・ダルトリー
出演:ニコール・キッドマン, ジュリアン・ムーア, メリル・ストリープ, エド・ハリス, トニ・コレット

2009年10月29日木曜日

ぼくと彼が幸せだった頃

 “ぼく”アンドルゥは、裕福な家に生まれ、コロンビア大学で哲学と音楽を専攻する非の打ちどころのないプレッピー。“彼”テッドは、オフ・ブロードウェーの俳優で金髪の美青年。スポーツジムで体を鍛え、無数のパートナーとセックスを楽しむ、美貌か才能か富を持ったゲイたち。輝くような1980年代のゲイカルチャーを、不意を打つように襲ったのは、エイズだった。死の恐怖と葛藤する中で、“ぼく”と“彼”が家族や友人たちと心を通わせていくさまが、心を揺さぶる。“彼”が去り「なんであいつを愛さなきゃいけなかったんだ!」と叫ぶ“ぼく”に、友人は「人は相手が男だろうと女だろうと、誰を愛するか自分で選ぶんじゃない。自分の愛情を拒絶して惨めに重いをするか、それとも素直に受け入れ喜びとして味わうか、を選べるだけなんだ。」そう言った。
 1980年代中ごろ、アメリカがエイズ禍に揺れている頃で「ゲイであること」というのがかつてない程微妙な問題であった頃。そういう時代を背景に、同性愛の自覚、成長、セックス、愛憎、エイズのことなどを一人称の主人公を通して描いている。散文的な文章、美しい表現、青春の輝きが詰め込まれた小説。エイズに侵された青年が、自らの自伝を執筆する、という設定で物語は進んでゆく。大胆な性描写はほどんどなく、ここで描かれるのは、ゲイカルチャーと共に、その中で育まれた真の愛情と友情である。興味本位では立ち入ることのできない、愛の物語である。“ぼく”と“彼”のお互いを思いあう気持ちは、ラストで涙を誘うこと間違いない。
 死の予感によって結ばれる人間同士の共感が繊細に描かれ、優しい気持ちにさせられてしまう極上の恋愛小説だ。いまではありがちな物足りない小説かもしれない。しかし、当時はカミングアウトはとても壁が高く厚いもので、差別の絶頂期だったと思う。その中でのこの小説はボクなりにセンセーショナルではあった。エイズで死の際にいる若い投資銀行行員は、ニューヨークでの豊かで活気のある彼の短い一生を振り返って、彼の恋人への「最終的な贈り物」として彼の言葉を綴る、瑞々しい言葉を並べたてて。しかし、その“彼”はすでに亡くなっている。なんとも悲しい物語だ。
この作品が発表されたあと、その前の作品「ジョセフとその恋人」が、同訳者、同出版社から発売された。「ぼくと彼が幸せだった頃」はクリストファー・デイヴィスの2作目の小説である。前作の方が難解で読みづらい。こちらはバックボーンが“エイズ”ではなく、“老い”である。これも悲しい。クリストファー・デイヴィスはゲイの不幸な末路を悲しみを湛えて表現し続ける作家かもしれない。きっと、彼にとってゲイはそもそも悲しい生き物なのだ。


「ぼくと彼が幸せだった頃」原題“Valley of the Shadow”, クリストファー・デイヴィス著, 福田広司訳, 早川書房, 1992年2月発売, 1529円

2009年5月17日日曜日

あるスキャンダルの覚え書き


 ロンドン郊外のセントジョージ総合中等学校で歴史を教える初老のバーバラ・コヴェットは、非常に厳格で生徒に知られているベテラン教師、何に対しても常に批判的な上、斜に構えた態度や単刀直入な物言いで周囲から疎んじられていた。孤立しているバーバラはある日、美術教師シーバ・ハートに目を留めた。家族も親しい友人もおらず、飼っている猫だけが心のよりどころだったバーバラは、シーバとの友情に固執するようになる。彼女こそ、私が待ち望んだ女性に違いないと、シーバの様子に執拗に目を配り、日記に彼女のことを夜毎書き綴る。ある日、シーバのクラスで騒動が起こる。偶然、通りかかったバーバラが殴り合う男子生徒を一喝し、騒ぎを収拾した。シーバは心からの感謝をバーバラに捧げ、バーバラを自宅に招くことになった。美容院で髪をセットし、花束を手にいそいそとシーバ宅を訪れたバーバラを出迎えたのは、シーバの夫と長女、ダウン症の長男。幸せを絵に描いたようなブルジョワ家族の休日を皮肉的に見つめるバーバラだったが、食後にシーバから人生の不満や夢を打ち明けられ、彼女との友情を勝手に再確認した。しかし、この友情には価値観の違いがあった。バーバラは神聖なものだと思い込んでいた。演芸会が行われた夜、シーバを探しに美術教室に向かったバーバラは、シーバが男子生徒とセックスしている姿を目撃する。その少年とは以前バーバラが叱った少年スディーヴン・コナリーだった。その関係に気づかなかった自分を呪ったバーバラは、シーバを呼び出し、すべてを告白させる。シーバはバーバラの強い厳命を聞き入れ、コナリーとの別離を決意した。秘密を握ったバーバラとシーバの間には、微妙で奇妙なバランスの友情が培われ始める。
 美しい美術教師と、彼女に執拗な関心を抱くオールドミスの教師とのスキャンダラスな関係を描く心理スリラー。これは実際にアメリカで事件。『アイリス』のリチャード・エアーが映像化した。オスカー女優のジュディ・デンチとケイト・ブランシェットが、火花散る演技対決を繰り広げる。孤独な年配女性教師の屈折した友情が、徐々に偏った愛情へと変化し明らかになっていくストーリー展開に引き込まれる。
 イギリスのブッカー賞で2003年の最終候補に残り、イギリスとアメリカ両方のベストセラー・リストに載ったゾーイ・ヘラーの「あるスキャンダルについての覚え書き」。激しい映画化権獲得の争いが繰り広げられた。スコット・ルーディンとロバート・フォックスのコンビが獲得し、原作を読んだルーディンは、バーバラを演じられるのはジュディ・デンチしかいないと確信していた。物語の非常に主観的なナレーターを含め、言動に悪意すらにじませる老女バーバラをデンチが貫祿たっぷりに演じている。平穏な家庭生活を営むなかで、子宝にも恵まれたが、人生に意義を感じることも自分に自信を持つこともできず、ふとしたきっかけでスタートした禁断の生徒とのセックスにのめりこみ、身動き取れなくなっていくキャラクターをケイト・ブランシェットも繊細さと大胆さを絶妙に配分した演技で人間の欲望をコントロールできない中年女を演じている。何かがバーバラの歪んだ感情を露呈させてしまった。急速にバーバラとシーバは親しくなっていくなか、誰ひとり自分を気に留めてくれなかったバーバラに、学校に行けば若く美しいシーバがほほ笑みかける。孤独なバーバラは友情とはほど遠い感情に翻弄されていく。シーバの抜け毛を偶然手に入れ、まるで宝物のように丁寧にハンカチに包み持ち帰り、大切な日記にスクラップ。シーバに自宅に招かれ社交辞令のつもりが、特別なことと思ってしまうバーバラ。シーバとの友情を美しいものだと信じて疑わないバーバラ。毎日、彼女とのささいな出来事を妄想とも言える表現で綴る。生徒と女教師のセックスを道徳的に考えて妥当な意見で喝するバーバラだが、本心は果たして……。どんどん友情の固執と嫉妬に異常な状態になっていくバーバラ。
 この映画の中で、バーバラがシーバの腕を取り、指を滑らせていくシーンがいちばんエロティックで異常なものに感じました。彼女が自分の同性愛的要素に気づいていれば、それは異常な行動でもないんだけれど、友情の枠は超えている。嫉妬もストーカー並み。これはレズビアンを内包した、複雑で、デモストレートでもな感情の人間の欲望のドラマだと思う。
 欲望むき出しのエゴイストな老女は、シーバとの関係ののち、ラストでまた同じ過ちを繰り返す。人間はこんなにも醜い生き物なのか。それとも、偏った愛情は人間の理性を打ち砕いてしまうのか。心苦しくなる映画でした。

◎作品データ◎
『あるスキャンダルの覚え書き』
原題:Notes on a Scandal
2006年イギリス映画/上映時間:1時間38分
監督:リチャード・エア
出演:ジュディ・デンチ, ケイト・ブランシェット, ビル・ナイ, アンドリュー・シンプソン, トム・ジョージソン

2009年5月9日土曜日

ペット・ショップ・ボーイズ


 ニール・テナントとクリス・ロウ ニール・テナントとクリス・ロウによる不世出のデュオ、ペット・ショップ・ボーイズ。 1981年にミュージシャンで音楽誌エディターだったニール・テナントと、建築学を学ぶ大学生だったクリス・ロウの2人が出会って意気投合し、ユニットが結成された。楽器屋で同じキーボードに二人同時に手を出したことより 運命的なものを強く感じたとのこと。当初は「ウエストエンド」と名乗っていたが、たまたま二人に共通の友人がおり、その人物がペットショップで働いていたことより変更した。1984年、イギリスのエピックから「ウエスト・エンド・ガールズ」でデビュー。1985年に「ウエスト・エンド・ガールズ」をよりポップにして発売。世界の音楽シーンのトップへ一躍上りつめる。日本でも知られるようになった。以降は現在に至るまでメガヒットの連続。「哀しみの天使」、「とどかぬ思い」など多数。また、は様々なアーティストと共作、プロデュース、リミックス等で関わってきたことでも知られている。 哀愁漂うメロディーライン、ニールの虚無的で透明感に満ちたヴォーカル、艶やかで儚いポップの神髄。徹底的に冷めた目線を持ちながら、確信犯的にポップ・ミュージックを追求してきた。ほかのミュージシャン、DJ、リミキサー達から今も高くリスペクトされている。基本的なメロディーラインはクリスが作成している。数多くの作品がダンスミュージックとしても高く評価されているほか、前衛映画の製作も務めるなど、多彩な才能を持っている。歌詞を含め、様々な社会的事象を風刺した楽曲を作ることもよくある。ニール自身の体験が基になっている宗教的な曲「イッツ・ア・シン」などは、その代表作である。また、1991年のソビエト連邦崩壊にインスピレーションを受け、社会主義リアリズム的な表現を取り入れたように見せかけたミュージックビデオの「ゴー・ウェスト」が高い評価を得ている。この曲は実は1970年代、まだ同性愛に寛容でなかったニューヨーク市を拠点として活躍していたゲイグループ、ヴィレッジ・ピープルが、ゲイのメッカであるサンフランシスコへの憧れを歌った曲で、ペット・ショップ・ボーイズがカヴァーしたことになる。他にもU2をはじめ、様々なミュージシャンの曲をカヴァーしている。2003年にベスト盤「PopArt」を発表、今年2009年にも「コンプリート・シングル・コレクション」を発表、オリジナルアルバムも「イエス」を発表、精力的に活動している。
 ヴォーカルのニール・テナントは自らゲイであることをカミングアウトしている。ライヴのパフォーマンスは、ゲイ的な表現も目立つ。1994年、ニールはイギリスのメジャー・ゲイ雑誌「Attitude」誌のインタヴューに応えて、ここで初めて、自分がゲイであると公式にコメントした。一方クリスは、これまでのところは、セクシャリティについての公式なコメントはないが、彼のパートナーであったといわれているピーター・アンドレアスが、この年にエイズで亡くなっており、翌1995年にリリースされた、ペット・ショップ・ボーイズのBサイド・コレクション・アルバム「Alternative」は、ピーター・アンドレアスに捧げられている。1997年7月には、ロンドンのゲイ・プライド・イヴェントにヘッドライナーで出演。また、10月には、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれた、Stonewall's Equality Show にもヘッドライナーで出演している。1999年にリリースしたアルバム「Nightlife」では、ゲイからの圧倒的な支持を集めているオーストラリアの歌姫、カイリー・ミノーグと共演。ゲイであることを告白する父親と、その娘との対話を描いたバラード、「In Denial」を、ニールとカイリーがデュエットしている。また、このアルバムからのヒット・シングル「New York City Boy」は、Studio 54に代表される、'70年代末~'80年代初頭にかけてのニューヨークのクラブ・カルチャー・シーンへのオマージュであると同時に、ヴィレッジ・ピープルのテイストを今日的に再構築した作品であった(全英14位)。2005年に発売されたアルバム「Very」からのシングルカットで、全英7位のヒット曲となった「Can You Forgive Her?」について、ニールはコメントで「一種のショート・ストーリーなんだ。ガールフレンドから男らしくないとバカにされた男が、夜も眠れないでいる。ベッド・インしている時でさえ、いくじなしだと言われる。そうして彼は学校に通っていたころの、最初の性体験を振り返って、自分がゲイだと自覚するんだけど、その事実と向き合うことができないんだ」と言っている。
 ちなみに、ロンドン3日ロイターが、英国最大の音楽賞であるブリット・アワーズは3日、イギリスのポップユニットのペット・ショップ・ボーイズに2009年の生涯功労賞を授与すると発表した。授賞式は来年2月に行われる。ペット・ショップ・ボーイズは、1981年に結成。1986年には、最初のヒット曲となった「ウエスト・エンド・ガールズ」が世界各国で1位を記録した。主催者側は、「すべての世代に向けた素晴らしい音楽を、20年以上にわたって作り続けてきた」などと受賞理由を説明している。昨年は、ポール・マッカートニーに贈られた。
 台頭してきたときから、同じ匂いを感じたが、カミングアウトにはそれなりに驚いた。イギリスの名誉ある賞にも驚き。まだまだ停滞は見られず、新作「イエス」もいい出来だったので、応援しよう。

2009年3月11日水曜日

フィラデルフィア


 フィラデルフィアで、2人の弁護士が公害訴訟で争っていた。原告側の弁護士ジョー・ミラーと被告側の、大手法律事務所所属の弁護士アンドリュー・ベケット、ミラー弁護士は敗北した。夜、ベケットは会社で上司から褒められ、次の大きな仕事を任される。数ヵ月後、ひどく痩せ衰えたベケット弁護士がミラーの事務所を訪ねてきた。握手をし、どうしたのかと尋ねるミラーに対してベケットは、エイズを理由に会社を解雇されたので裁判を起こして欲しいと頼んだ。しかし、自身がゲイ嫌いでエイズに対する偏見を持っていたミラーは、ベケットの依頼を断る。ベケットは悔しそうに、恨めしそうにミラーの法律事務所看板を見つめる。一度は依頼を断ったミラーだったが、大手法律事務所を相手に法廷で勝って、自身の実績を上げるために、あらためてベケットの依頼を受けることにする。裁判の論点はベケット解雇の理由に絞られた。ベケットの元の所属事務所は、重要な裁判の書類を失くしたことや力量の不足を主張したが、ベケットは、事務所の健康診断でHIVウィルス感染者だと分かった事が理由だと主張した。ベケットが同棲している恋人ミゲールや、ベケットの家族が見守る中裁判は進行していく。予断を許さぬ裁断の行方と並行して、ベケットの症状は次第に悪化していく。遂にベケットは裁判中に倒れ、病院に運ばれた。ミラーは原告側の勝訴の報を、ベッドの上のベケットに告げる。数日後、大勢の人々に見守られながらベケットは静かに息を引き取り、ミラーはかけがいのない友の死を実感した。
 エイズで解顧された弁護士とエイズに偏見を持つ弁護士の2人が、差別と偏見という敵に闘いを挑む社会派のヒューマン・ドラマ。監督は『羊たちの沈黙』のジョナサン・デミ。脚本はロン・ナイスワーナー、撮影も『羊たちの沈黙』のタク・フジモト。音楽も同作のハワード・ショア、挿入歌もブルース・スプリングスティーン、ニール・ヤング、マリア・カラスの曲が彩る。ブルース・スプリングティーンの「ストリーツ・オブ・フィラデルフィア」はアカデミー賞の主題歌賞も受賞。出演はベケット役でトム・ハンクスが第66回アカデミー最優秀主演男優賞を受賞した。ミラーにはデンゼル・ワシントン、ベケットの恋人にアントニオ・バンデラス、他にジェイソン・ロバーズ、メアリー・スティーンバージェン、ジョアン・ウッドワードらが脇を固める。
 テーマはもちろんエイズや同性愛者を含む差別問題にある。もちろん差別していいわけはない、それは最初から明白。しかし、本能的に避けてしまう部分が多くの人にあることは否めない。ことに、この映画では、エイズは差別すべきでないが、輸血や薬害でのエイズは差別すべきでない、同性愛者は自業自得だという伏線が存在している。ダークな部分を描ききったかが焦点になる。この映画では隠そうとするベケットと差別や偏見に対して心情が変化してゆくミラーに表現される。これは2人の名演により感動的な映画に仕上がっている。しかし、正直、もっと泥臭く追及してもよいのではないかというのが本音だ。法廷での駆け引きと日常の差別の演出のバランスにちょっと甘さを感じたように思う。それでも、この作品は当時暗黙のうちにタブーとされていた世界を真っ先に真っ向から取り組んだ画期的な映画だったと思う。そのくらい衝撃はあった。
 この映画では、背景にゲイが存在するだけで、セクシャルなシーンはまったくない。なので、それを期待して観ないで欲しい。
 この作品でのトム・ハンクスのオスカー受賞はダークホース、翌年の『フォレスト・ガンプ』での受賞は本命だった。つまり、翌年以降コメディも演じられる演技派男優として、当然のようにノミネートされる俳優になってゆくと誰もが思わず、彼に名誉を与えたのだ。彼はそれまでコメディを中心に演じてきて、大胆なダイエットで演技力を見せつけるかのような表現をした。明らかにこの映画が転機になったと言える。
 しかし、何より感動するのは、ベケットが自室で、マリア・カラスの「アンドレ・シェニエ」のアリアをCDで聞くシーン。絶望のどん底から希望の光を見つけていくかを模索してゆくかのようなシーン、自分の夢を熱くミラーに語る。このシーンが妙にゲイっぽく見えるのはボクだけだろうか。フィラデルフィアは絶望から希望へ、その心境の背景にふさわしい街。絶望も希望も受け止めてくれる街にボクの目には映った。

◎作品データ◎
『フィラデルフィア』
原題:Philadelphia
1993年アメリカ映画/上映時間:2時間5分
監督:ジョナサン・デミ
出演:トム・ハンクス, デンゼル・ワシントン, アントニオ・バンデラス, ジェイソン・ロバーツ, メアリー・スティンバーゲン

2009年2月22日日曜日

きみの背中で、僕は溺れる


 半年以上、間が空いてしまいました。何とか、再開に至りました。ペースは落ちるかもしれませんが、がんばりますね。

 卒業を前に進路の決まらぬ大学生の祐司は、姉が連れてきたフィアンセ佐伯透に一目で恋に落ちてしまった。だが姉の幸せを願う祐司は、自分の気持ちを封じようとする。そんな祐司を誘い出したのは、透のほうだった。祐司と透、それぞれの孤独と、止めようのない恋。痛ましいのピュアな愛が切々と胸を打つ、第1回ダ・ヴィンチ文学賞優秀賞受賞作「But Beautiful」に、その後の祐司を描いた書き下ろし1編を追加収録している。
 メディアファクトリーから2008年10月に発売された文庫です。
著書の沢木まひろはで、2006年に上記文学賞優秀賞を受賞後、「WEBダ・ヴィンチ」や「L25mobile」にて小説を連載している。実はいろいろ調べても素性が明らかにならない。東京都に住む女性ということしかわからない。
 主人公の青年が好きになったのは、姉の婚約者だった、という同性愛がテーマというだけで惹かれて購入した作品。読み終えて切ない感じが残った。文章も読みやすい。
手に入れた瞬間、失うことが怖くなる。しかも相手は姉の婚約者。姉と確執はない。たまたま好きになったのが姉のフィアンセだったということだけでは済まされない関係だ。そして肉体関係を持ったらそれは罪となってしまう。自分でも許せないような恋を、率直な言葉でわかりやすく描き出す。 就職の決まらない大学生というあやふやな位置からの恋愛。「But Beautiful」は、祐司の若さが瑞々しく、清潔感を感じる恋愛小説だった。
 追加収録の「What's New?」は祐司の目線ではなく三人称で書かれており、直接的にピュアな感情が赤裸々には伝わらなった。6年間という時間の隔たりは、ピュアさを失った大人の物語だ。後悔や罪悪感、不都合や不条理をすべて抱え込んで、生きていくことができる。年を重ねるということだ。純粋を失い力強さを得るのだ。
 つまりは、陳腐なありふれた恋愛小説だが、ゲイであり、そこから派生する面倒くさいことを誰でもが共感できる書き方で表現しているから、好感が持てるのだ。
 しかし悲しいかな、深く追及されたものにはなっていない。もっとどろどろしていないと真実味がないと思うのは、経験から得る自分の性癖と感情のせいだろうか。正直になればなるほど、上品できれいでしかも常識的ではいられない。修羅場になるものだ。きれいに身を引いてしまっては、嘘つきだと思うのだ。嘘つきが悪いとは思わない。その方が幸せなことが多いから。
 正直、女性が書けばレズビアンの感情は書けるが、ホモセクシャルの感情は追及に限界を感じてしまうように思う。またトランスジェンダーだと訳が違うだろうけど。
 あなたがいなかったらきっと、今の僕もいないんだ―この祐司の心の中の呟きに集約されている気がする。


「きみの背中で、僕は溺れる」, 沢木まひろ著, メディアファクトリー文庫, 2008年10月発売, 524円