若い頃から男性であることに違和感を抱き、女性として独りLAで慎ましい生活を送るブリー。肉体的にも女性になるため最後の手術を控えていた。その矢先彼女の前に、突然トピーという少年が出現。スタンリーという名の父親を捜しているという。彼はブリーが男性だったころにたった一度の経験で出来た息子であることが判明する。しぶしぶ自分の手術費用を使ってニューヨークへ向かうブリー。ブリーは、自分の正体を明かさないまま、トビーを継父の暮らすケンタッキーへ送り届けようとする。
女性の心を持ちながら、体は男性として生まれてしまった性同一性障害の主人公の葛藤をモチーフにしたハートフルなロードムービー。愛を忘れてしまった親、愛を知らない息子の複雑な関係を、新進気鋭の監督ダンカン・タッカーが、初監督作品とは思えない手腕で描き出す。出会う予定ではなかったはずの、お互いに痛み多き人生を歩んできた2人が、この特別な旅を通じて成長してゆく様子を、ユーモラスであり、そして切なく描いている。
まずは父親から。TVドラマ「デスパレートな妻たち」の女優フェリシティ・ハフマンが、性同一性障害の中年男に扮し、夢と親心の間で揺れるヒロインを好演している。女性に変わる直前の男性、という難役を、絶妙なぎこちなさと圧倒的なリアリティで演じきり、アカデミー主演女優賞にノミネートされたほか、ゴールデングローブ賞主演女優賞を獲得するなど高い評価を受けた。ときどき出てしまう男の癖などを微妙に演じているところに凄さがある。この人物像を作り上げた彼女も凄いが、それを引き出したダンカン・タッカーの演出と脚本も凄いのだと思う。
そして息子、本当の父親の姿を知らないまま、ドラッグや売春に手を染める息子のトビー。彼も、難しい心理描写をさわやかに演じている。彼あってフェリシティ・ハフマンの演技は生きていると言える。父親を肉体関係へ誘う様子は実にうまく演じている。
タイトルの『トランスアメリカ』は「アメリカ大陸横断」の意味で、第三の性を表す「トランスジェンダー」に掛けたものだ。保険会社にも「トランスアメリカ」という名の会社があったりしてウェブサイトで名前が交錯して問題が起きたりしたというエピソードがある。また、ボードゲームにも「トランスアメリカ」というのがあり、自分が指定されたアメリカ大陸の五都市を線路で繋げることを目指すゲームなのだが、父親・母親・息子そしてそれぞれの過去とを結び付ける線を捜すゲームの意味合いも含ませているとは読み過ぎか。ドリー・パートンがこの映画のために書き下ろした「Travelin' Thru」も歌曲賞でオスカーにノミネートされた。受賞こそ逃したがこれがまたいい。
人間ドラマとも言えるしロードムービーともとれるこの映画は、まず自分が父と名乗れないことから親切な教会の女の人を装い、トビーの父親探しの旅に付き合うことにするところから最初の軋みが始まる。幼い頃に父に捨てられた息子が、その父と知らず奇妙な女と旅をするわけだ。2人の再会にはじまるが、彼にとっては初対面だ。道中全ての出来事が、ある一定の緊張と距離を保ちながら進んで行く。これが妙なおかしさを醸し出している。ブリーは息子に懺悔の気持ちと、真実を語れない後ろめたさを感じている。トビーは、それを愛と勘違いし、愛を告白してしまう。だがそのおかしさは胸の詰まる思いのするおかしさだ。少しずつ近づいていく2人に、突然また軋みが訪れる。トビーがブリーは男であると知ってしまうのだ。性同一性障害本人が抱える苦悩、その家族の想いやり、胸に残る感慨は深い。ブリーは、手術費を稼ぐためにいやな仕事を齷齪掛け持ちした。友人の人もいない彼女は、そのひとの目に触れない仕事で、見えない存在となり、完全に女性になったら、過去を捨てて人生をゼロからやり直そうと考えていた。彼女の母親とのやりとりからは、ブリーが現在のような運命をたどった理由の一端が垣間見られる。かつて息子を自分の思いのままにしようとした母親は、今度は孫に同じ思いをさせようとする。そして、実家から飛び出してストリートキッズとなったトビーは、いたたまれずに実家から飛び出したブリーを理解する。おそらく監督は性同一性障害を抱えてしまった不幸な人間ではなく、ひとから理解されない人間の不安や孤独を描きたかったのではないだろうか。これだけではなく背景には、実際の母親はこっそりトビーを産んで夫のDVに遭っている。夫はトビーを手籠にする。そしてトビーもゲイとなる。警察沙汰も起こす。背景は多すぎる。監督の主人公や息子に対する細やかな描写とは裏腹に、詰め込まれ過ぎた背景がすべて重すぎて綿密に描き切れていないのが残念だ。でも、多分、それは複雑であればあるほど主人公は混乱し、逃げようとする人格を形成してしまったり、嘘を貫き通そうとしたり、その結果、完全な父親にはなれず、かといって母親にもなれず、もっといえば完全な女性にもなりきれず、完全な人間にもなりきれなかったのではないだろうか。自分のなぜかこんな風になってしまった運命がはっきりしていれば、もう少しましな人生が送れた気がする。だから、その辺は単なる背景として見ればよいのだ、きっと。詳しく描く必要のない、でも要因として含みたかった過去のエピソードなんだろう。とはいえ、残念ながらその辺の雑さは軽薄とはいかないまでも、軽い映画になってしまったのは事実だ。重い映画である必要はないし、これでいいのだろう。しかし、もっと苦悩を伝えるのなら話は別だ。その辺が難しい。もっと痛みを直接に感じる切なさを持っていてもよかった気はする。煮え切らない中途半端さが残る。
しかし、最後には手術をして強い女性になりそうな片鱗を窺わせて終わるから、この映画はそれでいい。そう、思う。
最後にこのサイトならではの感想をひとつ。立ちションで男がばれるのはいただけない。この女優、立ちションだけは下手だったと思う。しょうがないか。
◎作品データ◎
『トランスアメリカ』
原題:Transamerica
2005年アメリカ映画/上映時間:1時間43分
監督:ダンカン・タッカー
出演:フェリシティ・ハフマン,ケヴィン・セガーズ,フィオヌラ・フラナガン,エリザベス・ペーニャ,グレアム・グリーン
女性の心を持ちながら、体は男性として生まれてしまった性同一性障害の主人公の葛藤をモチーフにしたハートフルなロードムービー。愛を忘れてしまった親、愛を知らない息子の複雑な関係を、新進気鋭の監督ダンカン・タッカーが、初監督作品とは思えない手腕で描き出す。出会う予定ではなかったはずの、お互いに痛み多き人生を歩んできた2人が、この特別な旅を通じて成長してゆく様子を、ユーモラスであり、そして切なく描いている。
まずは父親から。TVドラマ「デスパレートな妻たち」の女優フェリシティ・ハフマンが、性同一性障害の中年男に扮し、夢と親心の間で揺れるヒロインを好演している。女性に変わる直前の男性、という難役を、絶妙なぎこちなさと圧倒的なリアリティで演じきり、アカデミー主演女優賞にノミネートされたほか、ゴールデングローブ賞主演女優賞を獲得するなど高い評価を受けた。ときどき出てしまう男の癖などを微妙に演じているところに凄さがある。この人物像を作り上げた彼女も凄いが、それを引き出したダンカン・タッカーの演出と脚本も凄いのだと思う。
そして息子、本当の父親の姿を知らないまま、ドラッグや売春に手を染める息子のトビー。彼も、難しい心理描写をさわやかに演じている。彼あってフェリシティ・ハフマンの演技は生きていると言える。父親を肉体関係へ誘う様子は実にうまく演じている。
タイトルの『トランスアメリカ』は「アメリカ大陸横断」の意味で、第三の性を表す「トランスジェンダー」に掛けたものだ。保険会社にも「トランスアメリカ」という名の会社があったりしてウェブサイトで名前が交錯して問題が起きたりしたというエピソードがある。また、ボードゲームにも「トランスアメリカ」というのがあり、自分が指定されたアメリカ大陸の五都市を線路で繋げることを目指すゲームなのだが、父親・母親・息子そしてそれぞれの過去とを結び付ける線を捜すゲームの意味合いも含ませているとは読み過ぎか。ドリー・パートンがこの映画のために書き下ろした「Travelin' Thru」も歌曲賞でオスカーにノミネートされた。受賞こそ逃したがこれがまたいい。
人間ドラマとも言えるしロードムービーともとれるこの映画は、まず自分が父と名乗れないことから親切な教会の女の人を装い、トビーの父親探しの旅に付き合うことにするところから最初の軋みが始まる。幼い頃に父に捨てられた息子が、その父と知らず奇妙な女と旅をするわけだ。2人の再会にはじまるが、彼にとっては初対面だ。道中全ての出来事が、ある一定の緊張と距離を保ちながら進んで行く。これが妙なおかしさを醸し出している。ブリーは息子に懺悔の気持ちと、真実を語れない後ろめたさを感じている。トビーは、それを愛と勘違いし、愛を告白してしまう。だがそのおかしさは胸の詰まる思いのするおかしさだ。少しずつ近づいていく2人に、突然また軋みが訪れる。トビーがブリーは男であると知ってしまうのだ。性同一性障害本人が抱える苦悩、その家族の想いやり、胸に残る感慨は深い。ブリーは、手術費を稼ぐためにいやな仕事を齷齪掛け持ちした。友人の人もいない彼女は、そのひとの目に触れない仕事で、見えない存在となり、完全に女性になったら、過去を捨てて人生をゼロからやり直そうと考えていた。彼女の母親とのやりとりからは、ブリーが現在のような運命をたどった理由の一端が垣間見られる。かつて息子を自分の思いのままにしようとした母親は、今度は孫に同じ思いをさせようとする。そして、実家から飛び出してストリートキッズとなったトビーは、いたたまれずに実家から飛び出したブリーを理解する。おそらく監督は性同一性障害を抱えてしまった不幸な人間ではなく、ひとから理解されない人間の不安や孤独を描きたかったのではないだろうか。これだけではなく背景には、実際の母親はこっそりトビーを産んで夫のDVに遭っている。夫はトビーを手籠にする。そしてトビーもゲイとなる。警察沙汰も起こす。背景は多すぎる。監督の主人公や息子に対する細やかな描写とは裏腹に、詰め込まれ過ぎた背景がすべて重すぎて綿密に描き切れていないのが残念だ。でも、多分、それは複雑であればあるほど主人公は混乱し、逃げようとする人格を形成してしまったり、嘘を貫き通そうとしたり、その結果、完全な父親にはなれず、かといって母親にもなれず、もっといえば完全な女性にもなりきれず、完全な人間にもなりきれなかったのではないだろうか。自分のなぜかこんな風になってしまった運命がはっきりしていれば、もう少しましな人生が送れた気がする。だから、その辺は単なる背景として見ればよいのだ、きっと。詳しく描く必要のない、でも要因として含みたかった過去のエピソードなんだろう。とはいえ、残念ながらその辺の雑さは軽薄とはいかないまでも、軽い映画になってしまったのは事実だ。重い映画である必要はないし、これでいいのだろう。しかし、もっと苦悩を伝えるのなら話は別だ。その辺が難しい。もっと痛みを直接に感じる切なさを持っていてもよかった気はする。煮え切らない中途半端さが残る。
しかし、最後には手術をして強い女性になりそうな片鱗を窺わせて終わるから、この映画はそれでいい。そう、思う。
最後にこのサイトならではの感想をひとつ。立ちションで男がばれるのはいただけない。この女優、立ちションだけは下手だったと思う。しょうがないか。
◎作品データ◎
『トランスアメリカ』
原題:Transamerica
2005年アメリカ映画/上映時間:1時間43分
監督:ダンカン・タッカー
出演:フェリシティ・ハフマン,ケヴィン・セガーズ,フィオヌラ・フラナガン,エリザベス・ペーニャ,グレアム・グリーン