2008年6月30日月曜日

ボーイズ・オン・ザ・サイド


 夜、勤めていたクラブで選曲が時代に合わないとクビになった歌手、ジェーンは組んでいたパートナーと離れロスアンゼルスに新たな生活を求めて旅に出ようとする。一方、ニューヨークで不動産の仲買人をしていたロビンも生活に嫌気が差し、同乗者を募ってサンディエゴに旅立とうとしていた。応募したもののジェーンはカーペンターをこよなく愛するロビンが自分と合わないと辞退するがロビンは一方的にジェーンを誘ってサンディエゴに向かった。途中、ジェーンは友人のホリーを訪ねるが、同棲中の恋人ニックと県下の真っ最中で、彼から離れたほうがいいと察したふたりはホリーも連れて旅に出ることに決めた。3人は旅を続けて行くうちにお互いの秘密を知るようになる。ジェーンはレズビアンで、恋人に振られたばかりであり、ロビンはHIVの感染者だった。ホリーは妊娠2カ月の身だった。そんな中、ホリーの恋人が死んだという事実を新聞の見出しで知り、自分たちが殺したのだと誤解してしまう。またロビンもエイズの感染症による肺炎で倒れてしまう。ホリーは殺人の容疑で、警察から手配される。いったん退院したロビンを連れて、3人でホリーとジェーンの知り合いのいるバーに行くと、そこへ警官がやって来くる。慌てふためくロビンとジェーンだったが、彼はホリーの別の恋人だった。ジェーンはロビンを慰めるため、ロビンに恋している男に働きかけるが、エイズを劣等感に感じているロビンは憐れみをかけられたと思いジェーンと決別してしまう。ホリーも恋人の警官に連れられる。ホリーは半年後に仮釈放程度の刑を受けるにとどまった。裁判の途中、証言台に立ったロビンは、その緊張感から容体が悪化し再び入院することに。ロビンは病床でジェーンに、10歳のころ、自分もある女性を愛していた事を告白する。やがてホリーの子供も生まれ、パーティが開かれる。ジェーンたちはロビンの好きなカーペンターズの歌を歌い、車椅子でロビンがそれを聞いていた。やがてロビンは病魔に勝てず、ジェーンはホリーとそこを出発する日、車椅子を見つめながら感傷に浸っていた。
 もう80歳を超える監督のハーバート・ロスは『チップス先生さようなら』『グッバイガール』『愛と喝采の日々』『カリフォルニア・スィート』『フットルース』など数々の名作を撮り続けてきた名監督。まだアカデミー賞の監督賞は獲得していない『愛と喝采の日々』でノミネートされたが、作品賞は獲得するものの監督賞は獲れなかった。もう高齢で、この1995年の『ボーイス・オン・ザ・サイド』以来新作の声を聞いていない。以前の強く作品にひきこむパワーは失い、数作前の『マグノリアの花たち』あたりから、非常に細やかな心の機微を描くようになってきたように思う。この作品でも大作の感じはないが、素晴らしい人間ドラマになっていると思う。新作を撮れるパワーは年齢的にないのかもしれない。3人の女優はあえて評する必要もないゴージャスなキャスト、レズビアンのシンガーのジェーンにウーピー・ゴールドバーグ、HIV患者のロビンにメアリー・ルイーズ・パーカー、破天荒なセックス依存者ホリーにドリュイ・バリモアが扮している。3人のバランスが非常によく、誰かが突出して映画を纏めている感じはない。アンサンブルがよい。
 人生に失速した3人の女性を旅を通して友情を育んで行く姿を描いたロードムービーだ。友情を描いた映画は数多くある。しかし、この特殊なシチュエーションで接するはずのないような性格三人三様の3人が一旦はバラバラになるが、最終的に共通点を見出し永遠の友情に包まれていく過程は実に見事だ、美しい。
 冒頭からしばらく、これは劣等感を面白おかしく挙げ連ねた不愉快なコメディかと思った。ところが、ロビンが倒れるあたりからぐっと辛辣なドラマにグラデーションしていく。例えば、車の中でジェーンのヘッドフォンをロビンが借りていいかどうか尋ねるシーンで断りもなくヘッドフォンをウェットティッシュで拭き始める。ブラックでドレッドヘアのジェーンを毛嫌いしているかのような潔癖症のロビンを演出するようなシーン、それを怪訝な顔で見つめるジェーン、しかし、後になって考えるとエイズである自分を移さないように他人に気配りしているエピソードだと気づく。ジェーンのロビンを思ってしたことがロビンの自尊心を気づつけるようなことになる直接的なシーンと対照的な演出だ。3人ともはまり役、ここでウーピー・ゴールドバーグが名演ぶりを披露しすぎるとこの作品は壊れてしまう。抑えた演技が好感がもてた。車椅子のロビンと囁くようにカーペンターズを口ずさむシーン、ここで『天使にラブ・ソングを』のように熱唱されちゃまずいもの。このささやくようなトーンがラストにロビンを回想するシーンに繋がると涙がとめどなくあふれてくる。ただ、ロビンにも愛した女性がいたという告白は蛇足だったかな。
これはもっと評価されてしかるべき映画だと思う。

◎作品データ◎
『ボーイズ・オン・ザ・サイド』
原題:Boys on the Side
1995年アメリカ映画/上映時間:1時間57分
監督:ハーバート・ロス
出演:ウーピー・ゴールドバーグ, メアリー・ルイーズ・パーカー, ドリュー・バリモア, マシュー・マコノヒー, アニタ・ジレット

2008年6月15日日曜日

ハーヴェイ・ミルク


 ハーヴェイ・バーナード・ミルク、Harvey Bernard Milkは 1930年5月22日生 1978年11月27日没、アメリカの政治家でゲイの権利活動家である。英語では正式には「ハーヴィー」と発音される。1977年カリフォルニア州サンフランシスコ市の市会議員に当選し、自らゲイであることをカミングアウトする。しかし、1年も経たない1978年11月27日、同僚議員のダン・ホワイトにより、ジョージ・マスコーニ市長とともに同市庁舎内で暗殺された。
 誕生時の名前はハーヴェイ・バーナード・ミルク、祖父がニューヨーク州ウッドミアでミルク百貨店の所有者だったことから姓をミルクと変更した。若い頃、彼の大きい耳と鼻と足から、風変わりな外見だとしてグリンピーというニックネームをつけられれた。生誕地はニューヨーク州ウッドミアで、1951年にニューヨーク州立大学オールバニー校を卒業し、米国海軍に入隊、名誉除隊となるが、後の選挙運動中、軍隊での同性愛者粛正の犠牲者となったと語っている。海軍での勤務の後、テキサス州ダラスで生活したが、ユダヤ人であることが影響して就職には不利だった。彼は自由が多いニューヨーク市に転居して、ウォール街で働いた。また、多くの演劇にも製作者として参加した。1972年にミルクは多くの友人がいるサンフランシスコに引っ越した。彼はパートナーのスコット・スミスと居を構えて、カストロ・ゲイ・ヴィレッジでカメラ店カストロカメラを開いた。共同体のリーダーとして頭角を現し始め、地元の商人から成るカストロ・ヴァレー協会を設立し、近隣の事業主の代表となった。
 ミルクは1973年と1975年にサンフランシスコ市議会に立候補し、落選した。彼はサンフランシスコの大きいゲイコミュニティーの表看板として頭角を現した。選挙のたびに支持者を増やし、ジョージ・マスコーニ市長は1976年に強力な許可証嘆願委員会に彼を任命したがその後、彼はカリフォルニア州議会議員選挙に立候補を表明し、投票総数33,000票で、対立候アート・アグノスに3,600票差で破れた。しかしサンフランシスコが大選挙区制から小選挙区制へ切り替わった後は1977年の3度目の立候補で市議に選ばれた。ミルクはゲイであることをカミングアウトした初めての合衆国の公職に選ばれたことになる。彼は11ヶ月の在職期間中に、犬の糞の放置に罰金を科す条例や、同性愛者権利法案を後援、制定を目指していた。そして同性愛の教職者を性的嗜好を理由に解雇できるとする条例の破棄に尽力し、1978年11月にカリフォルニアの住人によって否決された。ミルクはサンフランシスコの民族系住民や労働組合幹部と連帯を作ることに成功したが、残念ながら一般庶民との連帯は取れなかった。
 ミルクは、前の執行委員ダン・ホワイトによって1978年11月27日に市庁舎でジョージ・マスコーニ市長とともに射殺された。ホワイトはそのわずか数日前に、財政的困難と政治的な挫折で辞職していた。ホワイトは市庁舎に入り、マスコーニを撃った。ホワイトはそこでミルクと出会い、ホワイトが曰く、ミルクが薄笑いを浮かべたとのことでミルクの胸と頭を合計2回撃った。ミルクの葬儀の晩、キャンドルライトによる追悼の通夜に何千人も参加した。
 ホワイトは責任軽減が認められた上で計画的殺意のない殺人で有罪とされ、7年8ヶ月の禁固刑を宣告された。この判決にはホモフォビアに基づく考えがあり寛大すぎるとして広く非難された。ホワイトは5年の間服役し、仮釈放となった。
 判決の後に、ゲイコミュニティーは後に「ホワイト・ナイトの暴動」に突入した。評決が出ると同時に、ゲイコミュニティーの集団が官庁街に向かって速く歩き始めた。午後8時までにはかなり多数の暴徒が形成された。1984年のドキュメンタリー映画『ハーヴェイ・ミルク』によれば、激怒した群衆は復讐と死罪を要求して叫び始め、暴動が始まった。
 ボクが彼を知ったのは前述のドキュメンタリー映画を観た時だ。ドキュメンタリーなのに、多くのキャンドルで彩られた通夜のシーンでは涙が出てきた。ハーヴェイ・ミルクはゲイコミュニティーとゲイの権利運動の殉教者であるとされて、ハーヴェイ・ミルク研究所やサンフランシスコのハーヴェイ・ミルク・レスビアン・ゲイ・両性愛者及びトランスジェンダー民主クラブなど、多くのゲイ・レスビアンの共同体協会がミルクの名をちなんで命名した。ニューヨーク市のハーヴェイ・ミルク高等学校などオルタナティブスクールにもその名にちなんだ学校がある。英国のウォーウィック大学の食堂は、ハーヴェイズと命名された。ミルクは以前から自分でも暗殺の危険を察知しており、その場合に再生されるようににいくつかの音声テープを録音していた。その中に「もし一発の銃弾が私の脳に達するようなことがあれんば、その銃弾はすべてのクローゼットの扉を破壊するだろう」と言っている。クローゼットとはゲイの人々がそれを隠していることの象徴である。
映画『ハーヴェイ・ミルク』はハーヴェイ・ファイアスタインがナレーターを務め、アカデミー賞で1984年ドキュメンタリー映画賞を受賞する。
 ハーヴェイ・ミルクを主題にした音楽作品も多くあり、ブルー・ジーン・タイラニーの「ハーヴェイ・ミルク(肖像画)」、デッド・ケネディーズの「I Fought the Law」、バンド・コクリートの「God is a Bullet」、1990年代初期にジョージア州アテネでメタルバンド「ハーベイ・ミルク」も誕生し、このグループは現在も活動している。オペラ「ハーヴェイ・ミルク」も誕生し、1999年の映画『Execution of Justice』でもミルクの暗殺が再現されている。 ブライアン・シンガー監督が、今年公開予定しているミルクの伝記映画 『カストロ通りの市長』を監督しているし、ガス・ヴァン・サントがショーン・ペン、ジョシュ・ブローリン、ジェームズ・フランコ出演で映画 『ミルク』の撮影にとりかっかている。
政治のことはよくわからないが、ドキュメンタリー映画で興味を持ったので、ぜひ、この2作品は観てみたいと思っている。

2008年6月8日日曜日

ブロークバック・マウンテン


 1963年のワイオミング州。季節労働者として牧場の仕事を捜していたイニスは、経営者のジョーのもとでようやく仕事につくことができた。放牧された羊使いを、ふたりでするという仕事。相棒は、昨年もこの仕事をしていたジャックという男だった。内向的なイニスに較べ、むやみに陽気なジャックは初め相性が悪いと思っていたが、今年の夏は協力し合ってブロークバック・マウンテンで過ごさねばならない。仕事はルーティン、法律で羊番は、食事以外は羊たちの近くで簡易テントで過ごさなければならず、焚き火も出来ない。夏とはいえ寒く汚いテントで眠るるのは体力的にも辛い。性格的に似通ったところのなかったふたりも、他に話す相手も頼る仲間もなく、次第に絆を深めていった。ある晩、気晴らしのつもりで飲み始め深酒になってしまい、イニスはベースキャンプで仮眠を取ることにした。ジャックを気遣い火を落とした薪のそばで眠ろうとするが、寒さに耐えられず、ジャックに促されて狭いテントに一緒に潜りこんだ。肌を触れ合わせ、気持ちの箍が外れたのか、ふたりは熱い抱擁を交わし、一線を超えた。自分はストレートであると思っていたし、秋が来れば町に戻ってフィアンセのアルマと一緒になることになっているイニスは一度きりの過ちだとジャックに告げ、ジャックもそう思うことにした。しかし、ふたりの間に結ばれた絆は強かった。この山深い中で唯一の温もりだったふたりの体と心は、その約束など意味のないことだった。夏が終わり、別れ際にイニスは自分でも予測し得なかった絶望に暮れた。イニスは予定通りアルマと挙式を挙げた。アルマ・ジュニアとジェニーというふたりの娘にも恵まれ、楽ではなかったが、幸せな日々を過ごしていた。ジャックも、虚無感に襲われながらもロデオで日銭を稼ぎ、ラリーンと結婚し、子供にも恵まれるた。農耕機具販売会社の社長である妻の父はジャックを蔑み、日々はストレスの連続だった。ジャックと別れてから四年後、イニスのもとにブロークバック・マウンテンの写真の絵葉書が届く。近いうちに訪ねる、という内容だった。胸躍らせ、ジャックの姿が見えるなり家を飛び出し、熱い抱擁を交わすふたり、熱情に促されるままジャックと激しく唇を重ねていたイニスは、その様子をアルマが見つめていたのに気づかなかった。モーテルのベッドで4年の歳月、どれだけ求めあっていたかを確認するふたり。ふたりはそれから20年間年に数回の逢瀬を繰り返していた。お互い、結婚生活は破綻していた。しかしその翌年、ジャックに届いた知らせは悲しいものだった。
 監督は『グリーン・デスティニー』のアン・リー。このあとに『ハルク』なんて作品も撮っているが、むしろ、この2作は異色な方で、長編映画デビュー作の『推手』から『ウェディング・バンケット』『恋人たちの食卓』『いつか晴れた日に』などはむしろ『ブロークバック・マウンテン』に近い心の動きを捉えた人間ドラマの方が得意な監督である。ボクもこのころから彼の映画を見ているので、今回の映画が『グリーン・デスティニー』の監督と聞いても驚かない。『ウェディング・バンケット』ですでにゲイの映画を取り上げているのでそれにも驚かない。今回、この作品でアカデミー賞の監督賞を獲ったのは喜ばしいことだと思う。ただ、残念なことに、スクリーン・ロードショウ両誌で2006年のベスト1に選出されているほかインディペンデッド・スピリット賞、ゴールデングローブ賞、イギリスアカデミー賞、ロンドン映画批評家協会賞、全米製作者協会賞、放送映画批評家協会賞、ニューヨーク批評家協会賞、ナショナルボードオブレビュー、ロサンゼルス批評家協会賞、ヴェネチア国際映画賞、フェニックス映画批評家協会賞、セントルイス映画批評家協会賞、フロリダ批評家協会賞、ダラスフォートワース批評家映画協会賞、サウスイースタン批評家協会賞、ラスヴェガス映画批評家協会シェラ賞、サンフランシスコ批評家協会賞、ゴールデンサテライトアワード、ボストン批評家協会賞で最優秀作品賞やグランプリを獲得し、アカデミー賞でも最多ノミネートをしながら3部門の受賞にとどまったのはまだ社会的に偏見があるせいだろうか。人種差別などにはアカデミー賞はかなり理解を得てきているが残念だ。
 保守的で閉鎖的な当時のアメリカ社会にあって、ゲイバッシングによる偏見からカップルが惨殺されたりする時代、そこで20年も育み続けた蜜月の愛の物語である。同性愛に真っ向から取り組んだドラマという側面からセンセーショナルな話題を振りまいたが、もう今更そんなものは珍しくない、表面的には。ただ、自分の夫がそうであったらどうだろうか、自分の息子がそうであったら,,,.。まだまだ本当の理解には至っていないだろう。それが解消されるまではこの映画は意味のある映画だ。単なる恋愛映画なのに。時代がそうだから、この映画の主人公ふたりは自分自身も政党作を否定している。しかし、絆を深め自然に関係が発展した様は普通の恋愛映画と同じだ。むしろ、恋愛を描いた映画の多くが成就した時点で終わってしまうのに、この映画はそれ以降の煩悶や悲劇にスポットを当てている。この映画は、距離を置いていたふたりが、信頼関係を築き上げていくところから始まり、始めて一線を超える箇所で細かな表現をする。躊躇と激情の入り混じる心情がつぶさに表現されている。その片鱗がお互い初めからあったような表現も見事だ。何気なくあからさまに小用をたすシーンなど、伏線も描いている。セックスをした翌朝の戸惑いから4年たって自分を受け入れていく変化が繊細に描き出される。ふたりは同性愛に限定されず、結婚もし、子供ももうける。しかし、結局は両者とも破綻する。
 社会の同性愛への蔑視と、当事者の意識の違いを織り込みながら、何ら男女間の恋愛とも変わらないことを言っているようだ。同性愛を特異に見ることなく、恋愛映画のセオリーに当て嵌めたうえで、情景のせいで悲劇を積み重ねていったことに注目したい。結構生々しく、露骨な表現にも拘わらず、ほとんどいやらしさを感じず、むしろピュアに見えるのはなぜだろう。美少年でなく無骨な男ふたりなのに。それは身近に起こりうることのように描いているせいかもしれない。なにしろ、やたら切なく哀しい映画だ。

◎作品データ◎
『ブロークバック・マウンテン』
原題:Brokeback Mountain
2005年アメリカ映画/上映時間:2時間14分
監督:アン・リー
出演:ヒース・レジャー, ジェイク・ギレンホール, アン・ハサウェイ, ミシェル・ウィリアムズ, ランディ・クエイド

2008年6月1日日曜日

フロント・ランナー


 大学生のビリー・シーヴは中長距離の陸上選手、彼は頭がよく成績も優秀で容姿も美しい、りくじょうに取り組む姿勢はあくまでストイックだった。しかし彼にはひとと少し違った性癖があった。ゲイだったのだ。澄んだ青みを帯びた灰色の瞳を持ち、フィルムのように煌く。彼はオリンピックを目指しコーチのハーランのもとで練習に励んだ。ビリーはオリンピックを目指してその特訓は時を経るごとに激しいものになっていった。ビリーは典型的な先行逃げ切り型のランナーでフロントランナーと呼ばれていた。先頭を守らなければならない。いつもそんな気持ちが彼の中に巣くっていた。一方、彼のコーチを引き受けたハーランは陸上選手から陸上コーチになり、その後、女性を妊娠させ結婚をし、子供もいる。ゲイであることを隠していたが、先週に言い寄られ断わったことでゲイを噂され職を追われたうえ、妻から離婚を迫られる。ハーランは男相手に体を売るようになる。しかし、再び大学のコーチとして誘われる。それは別の大学からゲイを理由に追放された3人の選手を受け入れてコーチするというものだった。ビリーはそのうちの一人だった。ビリーとハーランはオリンピックに向けさまざまな障害を乗り越えたどり着く。アスリート協会、オリンピック協会、ゲイであることはストイックで健全なアスリートには出場させまいと。しかし法の力を持って出場を果たした。愛した人としか寝ないというポリシーのビリーと選手には手を出さないというポリシーのハーラン。当然ふたりは結ばれるはずがなかった。しかし、出会ったときから日に日に惹かれあったふたり、ビリーは堪えかねてモーションをかけた。それを酷く扱うハーラン。ふたりはついに映画館で気持ちを通わせる。一途なビリーはハーランしか頭になかった。しかし、現実は厳しかった。フロントランナーの背後で最後の1週で抜き出ることを狙うキッカーたちに捕まってしまう。ゲイの人権を獲得するための先頭を走り続け、ゲイを拒むキッカーたちに打ち落とされてしまうのだった。
この物語はコーチのハーランの視点で描かれている。「スポーツマンは健全な精神を持て」というプレシャーは暗黙のうちにゲイを健全でないと位置付けている時代だったのだ。この物語を書いたのはパトリシア・ネル・ウォーレンという女流作家である。女性がよくここまでゲイの心理を描いたものだと思う。書かれたのは1970年代。まだまだ偏見も差別も酷い時代だ。無関心や無理解ではなく、嘲笑・圧力・迫害という形で拒否される。その中で、カミングアウトした状態で戦うわけである。他人に迷惑をかけていない人々の内的な心に土足で踏み入り、掻き回す権利が誰にあろうか。
 当時この小説はゲイリブとしてアメリカ全土のスポーツのフィールドにセンセーショナルを巻き起こした。翻訳は北丸雄二。よくこの甘い甘い表現をこの時代の日本人が愛情を持って翻訳してくれたものだ。
 ラストは壮絶でビリーの死を以て終わる。なぜ悲惨な物語にする必要があったのか、幸せなまま自由も手に入れ終わらせることはできなかったのか。ビリーは考えていた、陸上だけでなくすべてにおいてフロントランナーとして終始トップを走り続けゴールすることで初めて自由が得られるのだ、と。それは踏みにじられた結末だった。
 この後、続編で「ハーランズ・レース」という小説が出版され、同者によって翻訳されている。ビリーを射殺した犯人を追う物語。前作の1976年モントリオールオリンピックでのビリーの事件について1978年5月に判決が言い渡された後から解決する1981年までを中心に、ラストは1990年の場面で終わる。ハーランは絶えず誰かに狙われ、私生活を脅かす存在に悩み続ける。ベトナム戦線帰還兵の傷ついた精神もエイズを病む人々も、時代の象徴的な傷跡に癒しを求め苦しんでいる人々それぞれが孤独を抱え込んでいる。でも人は独りでは生きられない。ハーランが人を愛するということについて、また愛を受け入れることについて、我々の痛みを代弁する。ゲイの読者には寂寥感が残る。またも問題作となっていた。「フロント・ランナー」のときはまだエイズは存在しなかったから、エイズの出現によって再び同性愛者が敬遠されるようになるわけだ。このエイズという悪魔の出現に前後して書かれたこの2作をボクらは大事に読まなければならない。
 実はこの「フロント・ランナー」が書棚からどうしても捜せず、読み直せなかった。そして、「ハーランズ・レース」はボクは購入してないし読んでいない。今、改めて読んでみたいと思う。何とかして2冊手に入れなければ。

「フロント・ランナー」原題“The Front Runner”, パトリシア・ネル・ウォーレン著, 北丸雄二訳, 第三書館, 1990年9月発売, 1800円
「ハーランズ・レース」原題“Harlan’s Race”, パトリシア・ネル・ウォーレン著, 北丸雄二訳, 扶桑社1997年5月発売, 1900円