2008年5月26日月曜日

さらば、わが愛 覇王別姫


 1930年代の中国の北部、娼婦の私生児である小豆子は、生まれつき本の指を持っていた。それを理由に入所を拒まれていた彼は、母親から指を1本切り落とされ無理やり捨てられるように京劇俳優養成所に預けられた。娼婦の子といじめられる小豆子をいつも助けてくれたのは、先輩の石頭。やがて小豆子は、石頭に同性愛的な想いを抱くようになる。成長した小豆子と石頭は、それぞれ程蝶衣と段小樓という芸名で、『覇王別姫』という芝居で項羽と虞美人を演じトップスターになる。蝶衣は相変わらず小樓を想っていたが、日中戦争が激化すると、小樓は娼婦の菊仙と結婚。深く傷ついた蝶衣は京劇界の重鎮・袁四爺の庇護下で小樓との共演を拒絶した。1960年代になると、中国全土に文化大革命の嵐が吹き荒れ、京劇は堕落の象徴として禁止されてしまう。芝居しかできない蝶衣と小樓も世間から虐げられるようになり、蝶衣、小樓、菊仙の3人は、極限まで追い詰められる。そして彼らの互いへの愛憎と裏切りの果てには、大きな悲劇が待ち受けていた。
 1993年のカンヌ映画祭で『ピアノ・レッスン』と同票でパルムドールに輝いた本作は3時間弱に及ぶ大作である。ゴールデングローブ賞、ニューヨーク映画批評家賞、ロスアンゼルス映画批評家賞の外国語映画賞も獲得している。監督のチェン・カイコーは映画監督の父とシナリオライターの母の間に生まれた映画監督になるべくしてなった環境で育ち『黄色い大地』で監督デビューした。デビュー作でいきなり認められ『人生は琴の弦のように』などの秀作を経て本作に至るが、以後も『始皇帝暗殺』などの大作を作り上げ『キリング・ミー・ソフトリー』でハリウッドデビューも果たす。個人的にはハリウッド進出後の『北京バイオリン』がとても好きだ。
 一方、俳優陣も注目せざるを得ない。女形の蝶衣を演じたレスリー・チャンはアイドルを経てこのころからキャリアを踏んだ俳優に転向し大成功したと言える。2003年の4月1日香港の最高級ホテル、マンダリンオリエンタル香港から飛び降り、自殺しているのが悔やまれる。46歳だった。私生活でもホモセクシャルを公言しており、自殺1年くらい前から欝病を患っていたと言われている。この仕種は本当に女性かと思わせるしなやかさだ。そして、小樓の妻菊仙を演じたコン・リーも今はもう大女優の域に達しているが、この頃は凄い女優が出てきたと度肝を抜かれた。彼女の情念を感じる演技は恐ろしいほどである。
 子供の頃の養成所での厳しさは文化や芸術の重みを感じさせるが、そこに生まれる戒律は、今日劇に対するこだわりや頑固さにつながっているが、それは自信でもあり、失うと大きな痛手となるものだ。なんだか周囲の無理解や不条理がレスリー・チャンの実生活と重なる。レスリー・チャンはこの役柄が役の捉え方を間違っている、俳優としての彼を認めない、と自分の役を分析している。果たして彼は実生活で何を信じ、何を演じ、何を求めていたのだろうか。何に迷っていたのだろうか。
 しかし、この映画では、そういった特殊な世界であるだけでなく、清朝崩壊後、文革期への時代背景、共産党政権樹立、廬溝橋事件など数々の事件や日中戦争、文化大革命、人民軍解放など社会的事件や戦争、革命が複雑に絡み合い、そこに深い嫉妬や憎悪が渦巻く。後半は人間裁判に及ぶ。蝶衣と小樓を尋問するシーンの連続は痛みしか感じない。そしてなぶり者にされての暴露シーン、お互いがお互いを非難するしか道はなかったのか。同性愛と兄弟愛と夫婦愛、それぞれが深いはずなのに、なぜこうなってしまうのだろうか。3時間弱悲惨なシーンを見続けるのはとても体力のいるものだ。だが、そこにはどうしようもない背景と、どうしようもない欲望と、どうしようもない嫉妬と、どうしようもない憎悪が連鎖のように描かれていて、あまりに凄まじく、同情とか憐憫の範疇を超えて、観ていて辛い。
 禁断の愛と歴史の傷、簡単にふたつの言葉では言い表しえない奥深さが、ボクの胸を突いてやまない。

◎作品データ◎
『さらば、わが愛 覇王別姫』
原題:覇王別姫(英語タイトル:Farewell My Concubine)
1993年香港・中国合作映画/上映時間2時間52分
監督:チェン・カイコー
出演:レスリー・チャン/チャン・フォンイー/コン・リー/ルォ・ツァイ/クー・ヤウ

2008年5月18日日曜日

エルトン・ジョン


 エルトン・ジョンとの出会いは「僕の歌は君の歌」を聴いたときで、それがだれのどんな歌かも知らなかった。多分、始めて洋楽に色気を持ち出した小学生高学年のことだったと思う。彼が両性愛者で、人物として興味を持ち始めたのはたぶんもう20代に入ってからだろ う。まあ、特に好きなわけではないけれど、歌に関してリスペクトはしている。

 エルトン・ジョンは、に1947年3月25日にイギリスのミドルセックス州ピナーでRAFの飛行中隊長だったスタンリー・ドワイトと妻シェイラの息子として生まれた。本名は、レジナルド・ケネス・ドワイト。彼は母親や親戚の女性に育てられ、父親と過ごした時間はわずかだった。ドワイトが15歳の1962年に離婚、母親はその後再婚し、義父をダーフという愛称で呼んでいた。
 4歳から、ピアノを弾き始め、耳で聴いたメロディーをすぐに演奏し神童と呼ばれた。11歳のときに王立音楽院に合格、音楽に専念するため、6年間在学した。
 1969年友人とコルヴェッツというバンドを結成。このバンドがやがてブルーソロジーに発展する。昼は音楽出版社への売り込みに奔走し、夜はロンドンのホテルでの単独ライブか、ブルーソロジーとして活動をしていた。1960年代半ばまで、ブルーソロジーはバックバンドとしてツアーを行った。リバティ・レコードのミュージシャン募集広告に応募し、これが今日まで続くレイ・ウィリアムズとのパートナーシップの始まりとなった。1967年バーニー・トーピンとの最初の共作曲「スケアクロウ」が書かれる。トーピンと出会って半年後、尊敬していたバンドでサポートをしていたロング・ジョン・ボルドリーとブルーソロジーのサックス奏者エルトン・ディーンの名にあやかり、自分の名前をエルトン・ジョンに改めた。ジョンとトーピンで、1968年にディック・ジェイムズのDJMレコードにソングライターとして入社し、様々なアーティストに楽曲を提供した。トーピンが1時間未満で歌詞を書きジョンに渡し、ジョンは30分ほどでそれに曲をつけた。音楽出版社のスティーヴ・ブラウンの助言により、自分のデビューレコードのために、トーピンとより複雑な曲を書き始める。最初の作品は1968年のシングル「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」だった。1969年には、シングル「レディ・サマンサ」とアルバム『エンプティ・スカイ』を録音した。これらは高い評価を得たものの売り上げは芳しくなかった。ソロデビュー後も、スーパーなどで名前を隠して歌ったり、オーディションを受けるなどして、音楽活動を続ける。
 彼がようやく花開くのは1970年のセカンド・アルバム『僕の歌は君の歌』。先行シングル「僕の歌は君の歌」が全米トップ10ヒットの売り上げを伸ばした。1972年から黄金期を迎える。アルバム『ホンキー・シャトー』が初の全米1位を記録、1975年の『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』まで、彼は7枚連続で全米1位に送り込んだ。本国のイギリスでも『ピアニストを撃つな!』が1973年度の年間チャート1位になるなど、彼の人気は世界的なものとなった。1974年には所属していたMCA傘下にレコード・レーベル、ロケット・レコードを設立。以降彼のアルバムはこのレーベルから発表された。1973年発表の2枚組『黄昏のレンガ路』は、現在も一般的な彼の最高傑作として評されているる。1975年のアルバム『キャプテン・ファンタスティック』は、全米ビルボードのアルバムチャートで史上初となる初登場1位を記録、1974年に発売されたベスト盤『グレイテスト・ヒッツ』は、彼のアルバムとしては最も大きな商業的成功を収め、米国では歴代15位のベストセラーとなっている。1974年には映画『トミー』に出演している。
 1976年ののキキ・ディーとの「恋のデュエット」以降、ハイペースでのレコード発表とステージ活動が精神や肉体に支障を来した。アルバム『ロック・オブ・ザ・ウエスティーズ』は商業的な成功を収めながらも評論家からは酷評され、プレッシャーから彼の心に迷いが生じ、アルバム『蒼い肖像』を発売すると彼は引退を表明して音楽活動を休止する。このときローリング・ストーン誌で両性愛者であることを公表した。約2年の活動休止期間を経てカムバックしたが泣かず飛ばず、1980年代を通してのシングルでほぼ毎年ヒット曲を連発していたが、常に全盛期のイメージと比較され、ヒット曲が出る度に「エルトンの復活」と称された。しかし、全盛期との違いとしてアルバム・セールスは大きく伸び悩み、1987年に行った長期公演では喉を悪化、声帯の手術を行っている。以降、彼のヴォーカル・スタイルおよび歌声は大きく変貌した。
 彼は1984年にドイツ人のレコーディング・エンジニア、レネーテ・ブリューエルと結婚。彼女との結婚生活はさまざまなスキャンダルを呼び、最終的には4年後の1988年に離婚に至った。1980年代後半の彼は精神的にも不安定で、過食症やアルコールの過剰摂取がエスカレートしていた。1990年、薬物とアルコール依存症、過食症の治療のため入院。更生施設への入居を経てカムバックしたジョンは、翌年のアルバム『ザ・ワン』で再び好調なセールスと高い評価を得る。多くの友人や知人などをエイズで亡くした彼は、1992年以降シングルの全収益を自ら設立したエイズ患者救援者団体、「エルトン・ジョン・エイズ基金」に寄付するようになった。
 その後の彼は順調にそこそこのヒットを生産しグラミー賞最優秀ポップ男性ボーカル賞とアカデミー歌曲賞を受賞するなど高い評価を受けた。1997年9月ダイアナ元皇太子妃への追悼歌「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997」をシングル発売する。この曲は全世界で3700万枚以上のセールスを記録。ビルボードHOT100とシングルセールスチャートで14週、カナダの公式シングルチャートで46週、その他日本をはじめとする世界各国のヒットチャートで首位を獲得し、シングルとしては史上最も多くの枚数を売り上げた。この楽曲の成功により、ジョンは1998年度のグラミー賞で最優秀男性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞している。1998年にはミュージカルや映画サントラ盤などにも進出した。
 最近はミュージシャンとしての活動そのものよりも、かつて親交が深かったジョージ・マイケルやマドンナといった他の歌手への批判、中華民国のパパラッチに対する暴言など、過激な言動や奇行などが取り沙汰されることが多い。また2005年には、イギリスで同性同士の準婚関係を認めるシヴィル・パートナーシップ法の制定を機に、15年来のパートナーだったデヴィッド・ファーニッシュと同性結婚し話題を呼んだ。
 現在は本名もレジナルド・ケネス・ドワイトからエルトン・ハーキュリーズ・ジョンと改名し「サー」の称号も得ている。 長年自身の容姿に劣等感を持っていたことをインタビューなどで語っている。1970年代の前半ごろから既に頭髪が薄くなりカツラを使用していた。1990年代に植毛手術に成功。21世紀に入っては視力矯正手術も受けている。繊細さと荒々しさを併せ持つ性格で、過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在。一方取材に対して饒舌で、舌禍事件を起こすこともしばしばある。自身のコンプレックス、同性愛を笑い話として披露することも多い。交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならずデビッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。

 かなりはしょっても、こんな長くなってしまった。ゲイシーンへの関与はボクらに勇気と自信を与えてくれる。そんな背景の中での音楽をボクは20歳代とは違った気持で感慨深く聴いている。

2008年5月15日木曜日

司祭


 リヴァプールの労働者区域の教会に熱意に燃える新任司祭のグレッグが就任した。主任司祭のマシューはリベラルな考えを持ち、左翼的な説教をし、しかも家政婦のマリアと愛人関係にあり、保守的なグレッグを驚かせた。しかし、グレッグには秘密があり、夜な夜な皮ジャンに着替え自転車に乗って繁華街に出かけてゲイバーで男を物色していたのだ。厳しい現実に自信を失いかけていたグレッグはゲイバーで出会ったグレアムと肉体関係を結んだ。グレッグは罪の意識に駆られるがその一方心の奥では彼を愛し始めていた。ある日、グレッグは告悔で高校生のリサから父に犯されているという事実を知ってしまう。立ちはだかるのは守秘義務。母親にも、福祉局にも事実を伝えられない。父親本人に会うがまるで意を介さない。グレッグはどうしようもない心に慰めを求めてグレアムとデートを繰り返す。しかしグレアムが彼のミサに来ると、グレッグは彼への聖餐を拒んでしまう。ある午後、リサの母がたまたま早く家に帰って夫が娘を犯しているのを目撃する。彼女はなぜ教えてくれなかったとグレッグを非難する。絶望したグレッグはグレアムに会い、二人は車の中で愛を確かめ合う。これがもとでグレッグの同性愛が露呈し、裁判沙汰になってしまう。彼は自殺未遂の末に僻地の教会に転任させられた。その間もマシューは偏見に負けてはならないと説き伏せる。始めはマシューとの意見の食い違いに反発を感じていたグレッグだが、真摯な誠意に、マシューと一緒に祭壇に立つことを決意する。日曜日のミサ、一部の信者は怒って席を立ち、残った信者も聖体拝受をグレッグから受けようとする者はいなかった。ただ独りリサを除いては。グレッグは彼女を抱きしめ、許しを求めて涙を流すのだった。
 今でこそ、許容の枠の広がった同性愛だが、この当時はまだ、政治的にも争点になっていた。しかも、司祭という職業と同性愛という性嗜好はあまりにも相容れない。欧米各国の政治的見解と、教会の権威、信仰層の保守化から、公開された各国から烈しい議論が巻き起こり、ローマ法王から抗議声明文が発表された。これがアメリカ公開にも影響を受け、さらに日本上陸には時間がかかり1994年製作にも拘わらず、日本公開は1997年となった。いまでこそ、こんなことでこんな問題にはならないだろう。しかし、「映画靖国問題」を彷彿とさせる。
 実は、この映画を観たとき、ゲイバーに通ってはだめだ、自業自得だと思った。もっと隠れたやり方があったはずだ。しかし、この苦悩と不条理感は痛いほど伝わる。ボクは無新論者だが、たとえば、今の職場でカミングアウトすることはタブーである。宗教的な罪の意識に関しては共感に困難を憶える。だがちょっとオープンにしすぎなボクには批難しきれない部分がある。そしてこういうことが絶対起こらないとは限らない。他にゲイを描いた映画はたくさんある。ゲイは病気じゃないか、ゲイは秘密にしなければならない、そういう視点で描かれるが、ここでは司祭であるがゆえに自分の本能的な肉欲を罪の意識として捉えるところにほかの映画と違う切なさがある。罪深さがある。だからこそ、ボクは自分も罪の意識を感じなくてはいけないのか、と涙するのである。自分のゲイは罪なのか。そう思えてしまう。
ただ、リサを助けられなった情けなさと熱意だけでは通らない不条理さは、設定が違えばだれでもあることだ。なぜ同じ人間を愛して悪い?司祭だから? 最後、リサを抱きしめて嗚咽して涙するシーンは実に痛ましい。ボクには彼を責められない。違うやり方があったにせよ、彼の苦しみはあまりにリアルだ。人を助ける、これは簡単なようですごく難しいことだ。結果、最後のミサを終えたグレッグはどうなったかわからない。リサを泣きながら抱きしめるシーンが遠景になって終わる。少しだけ救われた、そういう気持ちを残して終わる。リサを助けられなかったのはゲイだからではない。司祭だからだ。守秘義務のせいだ。しかし、彼が信頼を失い、説得力を失くしたのは、ゲイが露呈して、信者からある意味司祭としての資格を剥奪されたかのようなバッシングを受けたからである。それはさらにリサを救えない原因に拍車をかけたことになる。
 ベルリン国際映画祭で批評家国際連盟賞を受賞している。この後アントニア・バード監督は『マッド・ラブ』という精神に異常をきたし時に発作を起こす少女を愛す恋愛映画を撮っている。これもかなりシリアスだ。好きな作品である。しかし、この『司祭』の辛辣さには少し敵わない。残念ながらデビュー作のこの作品が最高作品となってしまったようだ。
 
◎作品データ◎
『司祭』
原題:Priest
1994年イギリス映画/上映時間:1時間45分
監督:アントニア・バード
出演:ライナス・ローチ,ロバート・カーライル,トム・ウィルキンソン,キャシー・タイソン,レスリー・シャープ

2008年5月4日日曜日

YES・YES・YES


 自分の中に「歌」がないことに気づいたジュンは、自らを傷つける道をとるために、セクシャリティと異なる世界に踏み込む。男が男を買いに来る売り専バーで働く17歳のジュンは、毎夜そこへやってくる男たちとの絡みや交わりから、何かを知っていくこととなる。
 と、内容を説明しようとすると、ほぼ全体の7割を占めるベッドシーンの羅列で、短絡的なあらすじ説明になってしまう。しかし、そう簡単なものではない。おいおいセリフやシチュエーションを引用して補足したいと思う。
 まず、これは1989年暮れに発売されたもので、今ほどゲイに対して状況が受け入れられていない頃の小説であること、1960年東京生まれの著者比留間久夫氏本人がゲイであること、それを念頭に置いてほしい。ボクが読んだその当時26歳は、普通にごまかしていたこともあり、ちょっと衝撃的な世界ではあった。知ってはいたが、ここまで事細かに書かれるとそれなりに衝撃は受けたのである。
 ノーマルな方にわかりやすく言うと、女の子がだれかに対して初めて足を開くということがどんなに刺激的か、相手を受けいれるとどんな感情になるか、行為の最中に涙を流すというのはどんな気持ちか。女性が多分誰でも知っているだろう感覚を、ノーマルな少年が男相手に自分の体を使って知ってゆく物語という感じだ。この発想はノーマルな方たちには驚異的なことだろう。ただ、ボクには衝撃ではあったけど、そこまでレアな感覚はなかった。主人公のジュンは、自意識過剰で内に籠った苦悩から、自分がとても蔑んでいるような相手に身をまかせて自分を壊してしまいたいという勝手な理由で男に体を売ることを決意するのである。結果、壊れずに終わるのだが、売春としての意識が目覚め、プライドが明確になり、優しさを覚えてゆく。男に体を売るということが、実は多少の愛情を持てなければ勤まらないもだといわんばかりだ。
 中に登場する椿さんや歌舞伎のママたちに対する筆者の愛情溢れる描写は化けもの扱いしているくせにとても愛情深く、多分いずれ紹介するだろう映画『メゾン・ド・ヒミコ』のような描き方である。例えば、椿さんのアザラシみたいな尻を前にタチ役をこなさなければならなくなった主人公が、「これはニューギニアの人食い人種の女だ……」と自分に言い聞かせるくだりなどはユーモアに溢れている。そもそもの理由がそんなだから惚れたはれたはなく、冷淡な洞察で「男」としての意識が脱がされていく感じを味わったと言えばよいか。
 とはいえ、一般小説の読者としてはかなりのダメージを与えるわからない感情かも知れない。文学的とはほど遠く、生々しいから、生理的に嫌悪感を憶える方はいるだろう。
 処女小説としては、多分その頃、勢いは充分で迫力さえ感じた。これで比留間氏はベストセラー作家となり、第26回文藝賞を受賞し、第3回三島由紀夫賞候補にもなる。その後の作品「ハッピーバースデイ」「ウルトラポップ」「不思議な体験」などの方が評価は高いようだ。1999年の「文藝」への投稿を最後に今は何をしているのよく知らない。
 正直言うと、オタク的視点で書かれているような気がして「エデン」や「ナルシス」といった単語の使い方に偏りを感じます。チャプターごとに同じベッドシーンや相手の男たちへの思いが違っていて、飽きはしない。すぐに読み切れる。ラストシーンも結論的なものを曖昧にしていて受け取り方は、多種多様だと思う。自虐的な青春文学と思うと読みやすいかも。 もし、主人公が女の子なら、今の携帯小説に通じる感じを受ける。
 なぜ自分を壊さなくてはならなかったのかのかは最後まで明かされない。若い頃に誰もが感じる青臭い虚無感みたいなものを感じるされるだけだ。
 ここでは主人公はノーマルだから、少し感情が違う。でも、マイノリティを意識し始めたボクは同じような空洞を経験してるのだと思う。新宿二丁目に足を運べば、やはり、違う。ボクがマイノリティから大多数の中の一人に一変し、何も罪悪感を感じない。だが、それはほんの街の一角。きっと、ノーマルの人たちには違和感ある空間だと思う。あそこは何か焦っている人間が引きつけられるような雰囲気を持っている。自己陶酔と自虐がこの小説のすべてのように今は思う。あれから20年を経たボクには何も衝撃は今は感じない。妙に達観した冷めた目をして読むことができる。皮膚で感じる繁華街の光景がとても鮮烈ではある。夜明けの繁華街の汚れた急に現実に帰ったような感じ、まだ、酔い潰れた人が公園で新聞を被って寝ているような風景。あんな虚無感から優しさを理解してゆく印象は実に妙だ。でも、その経験も、同類と話し込んだ夜もみんな今に至るボクには必要なんだったんだと、今、この本を読み返して思う。
 河出書房新社1200円。文庫も出ている。480円。文庫の方が捜しやすいかも。