2008年6月30日月曜日

ボーイズ・オン・ザ・サイド


 夜、勤めていたクラブで選曲が時代に合わないとクビになった歌手、ジェーンは組んでいたパートナーと離れロスアンゼルスに新たな生活を求めて旅に出ようとする。一方、ニューヨークで不動産の仲買人をしていたロビンも生活に嫌気が差し、同乗者を募ってサンディエゴに旅立とうとしていた。応募したもののジェーンはカーペンターをこよなく愛するロビンが自分と合わないと辞退するがロビンは一方的にジェーンを誘ってサンディエゴに向かった。途中、ジェーンは友人のホリーを訪ねるが、同棲中の恋人ニックと県下の真っ最中で、彼から離れたほうがいいと察したふたりはホリーも連れて旅に出ることに決めた。3人は旅を続けて行くうちにお互いの秘密を知るようになる。ジェーンはレズビアンで、恋人に振られたばかりであり、ロビンはHIVの感染者だった。ホリーは妊娠2カ月の身だった。そんな中、ホリーの恋人が死んだという事実を新聞の見出しで知り、自分たちが殺したのだと誤解してしまう。またロビンもエイズの感染症による肺炎で倒れてしまう。ホリーは殺人の容疑で、警察から手配される。いったん退院したロビンを連れて、3人でホリーとジェーンの知り合いのいるバーに行くと、そこへ警官がやって来くる。慌てふためくロビンとジェーンだったが、彼はホリーの別の恋人だった。ジェーンはロビンを慰めるため、ロビンに恋している男に働きかけるが、エイズを劣等感に感じているロビンは憐れみをかけられたと思いジェーンと決別してしまう。ホリーも恋人の警官に連れられる。ホリーは半年後に仮釈放程度の刑を受けるにとどまった。裁判の途中、証言台に立ったロビンは、その緊張感から容体が悪化し再び入院することに。ロビンは病床でジェーンに、10歳のころ、自分もある女性を愛していた事を告白する。やがてホリーの子供も生まれ、パーティが開かれる。ジェーンたちはロビンの好きなカーペンターズの歌を歌い、車椅子でロビンがそれを聞いていた。やがてロビンは病魔に勝てず、ジェーンはホリーとそこを出発する日、車椅子を見つめながら感傷に浸っていた。
 もう80歳を超える監督のハーバート・ロスは『チップス先生さようなら』『グッバイガール』『愛と喝采の日々』『カリフォルニア・スィート』『フットルース』など数々の名作を撮り続けてきた名監督。まだアカデミー賞の監督賞は獲得していない『愛と喝采の日々』でノミネートされたが、作品賞は獲得するものの監督賞は獲れなかった。もう高齢で、この1995年の『ボーイス・オン・ザ・サイド』以来新作の声を聞いていない。以前の強く作品にひきこむパワーは失い、数作前の『マグノリアの花たち』あたりから、非常に細やかな心の機微を描くようになってきたように思う。この作品でも大作の感じはないが、素晴らしい人間ドラマになっていると思う。新作を撮れるパワーは年齢的にないのかもしれない。3人の女優はあえて評する必要もないゴージャスなキャスト、レズビアンのシンガーのジェーンにウーピー・ゴールドバーグ、HIV患者のロビンにメアリー・ルイーズ・パーカー、破天荒なセックス依存者ホリーにドリュイ・バリモアが扮している。3人のバランスが非常によく、誰かが突出して映画を纏めている感じはない。アンサンブルがよい。
 人生に失速した3人の女性を旅を通して友情を育んで行く姿を描いたロードムービーだ。友情を描いた映画は数多くある。しかし、この特殊なシチュエーションで接するはずのないような性格三人三様の3人が一旦はバラバラになるが、最終的に共通点を見出し永遠の友情に包まれていく過程は実に見事だ、美しい。
 冒頭からしばらく、これは劣等感を面白おかしく挙げ連ねた不愉快なコメディかと思った。ところが、ロビンが倒れるあたりからぐっと辛辣なドラマにグラデーションしていく。例えば、車の中でジェーンのヘッドフォンをロビンが借りていいかどうか尋ねるシーンで断りもなくヘッドフォンをウェットティッシュで拭き始める。ブラックでドレッドヘアのジェーンを毛嫌いしているかのような潔癖症のロビンを演出するようなシーン、それを怪訝な顔で見つめるジェーン、しかし、後になって考えるとエイズである自分を移さないように他人に気配りしているエピソードだと気づく。ジェーンのロビンを思ってしたことがロビンの自尊心を気づつけるようなことになる直接的なシーンと対照的な演出だ。3人ともはまり役、ここでウーピー・ゴールドバーグが名演ぶりを披露しすぎるとこの作品は壊れてしまう。抑えた演技が好感がもてた。車椅子のロビンと囁くようにカーペンターズを口ずさむシーン、ここで『天使にラブ・ソングを』のように熱唱されちゃまずいもの。このささやくようなトーンがラストにロビンを回想するシーンに繋がると涙がとめどなくあふれてくる。ただ、ロビンにも愛した女性がいたという告白は蛇足だったかな。
これはもっと評価されてしかるべき映画だと思う。

◎作品データ◎
『ボーイズ・オン・ザ・サイド』
原題:Boys on the Side
1995年アメリカ映画/上映時間:1時間57分
監督:ハーバート・ロス
出演:ウーピー・ゴールドバーグ, メアリー・ルイーズ・パーカー, ドリュー・バリモア, マシュー・マコノヒー, アニタ・ジレット

2008年6月15日日曜日

ハーヴェイ・ミルク


 ハーヴェイ・バーナード・ミルク、Harvey Bernard Milkは 1930年5月22日生 1978年11月27日没、アメリカの政治家でゲイの権利活動家である。英語では正式には「ハーヴィー」と発音される。1977年カリフォルニア州サンフランシスコ市の市会議員に当選し、自らゲイであることをカミングアウトする。しかし、1年も経たない1978年11月27日、同僚議員のダン・ホワイトにより、ジョージ・マスコーニ市長とともに同市庁舎内で暗殺された。
 誕生時の名前はハーヴェイ・バーナード・ミルク、祖父がニューヨーク州ウッドミアでミルク百貨店の所有者だったことから姓をミルクと変更した。若い頃、彼の大きい耳と鼻と足から、風変わりな外見だとしてグリンピーというニックネームをつけられれた。生誕地はニューヨーク州ウッドミアで、1951年にニューヨーク州立大学オールバニー校を卒業し、米国海軍に入隊、名誉除隊となるが、後の選挙運動中、軍隊での同性愛者粛正の犠牲者となったと語っている。海軍での勤務の後、テキサス州ダラスで生活したが、ユダヤ人であることが影響して就職には不利だった。彼は自由が多いニューヨーク市に転居して、ウォール街で働いた。また、多くの演劇にも製作者として参加した。1972年にミルクは多くの友人がいるサンフランシスコに引っ越した。彼はパートナーのスコット・スミスと居を構えて、カストロ・ゲイ・ヴィレッジでカメラ店カストロカメラを開いた。共同体のリーダーとして頭角を現し始め、地元の商人から成るカストロ・ヴァレー協会を設立し、近隣の事業主の代表となった。
 ミルクは1973年と1975年にサンフランシスコ市議会に立候補し、落選した。彼はサンフランシスコの大きいゲイコミュニティーの表看板として頭角を現した。選挙のたびに支持者を増やし、ジョージ・マスコーニ市長は1976年に強力な許可証嘆願委員会に彼を任命したがその後、彼はカリフォルニア州議会議員選挙に立候補を表明し、投票総数33,000票で、対立候アート・アグノスに3,600票差で破れた。しかしサンフランシスコが大選挙区制から小選挙区制へ切り替わった後は1977年の3度目の立候補で市議に選ばれた。ミルクはゲイであることをカミングアウトした初めての合衆国の公職に選ばれたことになる。彼は11ヶ月の在職期間中に、犬の糞の放置に罰金を科す条例や、同性愛者権利法案を後援、制定を目指していた。そして同性愛の教職者を性的嗜好を理由に解雇できるとする条例の破棄に尽力し、1978年11月にカリフォルニアの住人によって否決された。ミルクはサンフランシスコの民族系住民や労働組合幹部と連帯を作ることに成功したが、残念ながら一般庶民との連帯は取れなかった。
 ミルクは、前の執行委員ダン・ホワイトによって1978年11月27日に市庁舎でジョージ・マスコーニ市長とともに射殺された。ホワイトはそのわずか数日前に、財政的困難と政治的な挫折で辞職していた。ホワイトは市庁舎に入り、マスコーニを撃った。ホワイトはそこでミルクと出会い、ホワイトが曰く、ミルクが薄笑いを浮かべたとのことでミルクの胸と頭を合計2回撃った。ミルクの葬儀の晩、キャンドルライトによる追悼の通夜に何千人も参加した。
 ホワイトは責任軽減が認められた上で計画的殺意のない殺人で有罪とされ、7年8ヶ月の禁固刑を宣告された。この判決にはホモフォビアに基づく考えがあり寛大すぎるとして広く非難された。ホワイトは5年の間服役し、仮釈放となった。
 判決の後に、ゲイコミュニティーは後に「ホワイト・ナイトの暴動」に突入した。評決が出ると同時に、ゲイコミュニティーの集団が官庁街に向かって速く歩き始めた。午後8時までにはかなり多数の暴徒が形成された。1984年のドキュメンタリー映画『ハーヴェイ・ミルク』によれば、激怒した群衆は復讐と死罪を要求して叫び始め、暴動が始まった。
 ボクが彼を知ったのは前述のドキュメンタリー映画を観た時だ。ドキュメンタリーなのに、多くのキャンドルで彩られた通夜のシーンでは涙が出てきた。ハーヴェイ・ミルクはゲイコミュニティーとゲイの権利運動の殉教者であるとされて、ハーヴェイ・ミルク研究所やサンフランシスコのハーヴェイ・ミルク・レスビアン・ゲイ・両性愛者及びトランスジェンダー民主クラブなど、多くのゲイ・レスビアンの共同体協会がミルクの名をちなんで命名した。ニューヨーク市のハーヴェイ・ミルク高等学校などオルタナティブスクールにもその名にちなんだ学校がある。英国のウォーウィック大学の食堂は、ハーヴェイズと命名された。ミルクは以前から自分でも暗殺の危険を察知しており、その場合に再生されるようににいくつかの音声テープを録音していた。その中に「もし一発の銃弾が私の脳に達するようなことがあれんば、その銃弾はすべてのクローゼットの扉を破壊するだろう」と言っている。クローゼットとはゲイの人々がそれを隠していることの象徴である。
映画『ハーヴェイ・ミルク』はハーヴェイ・ファイアスタインがナレーターを務め、アカデミー賞で1984年ドキュメンタリー映画賞を受賞する。
 ハーヴェイ・ミルクを主題にした音楽作品も多くあり、ブルー・ジーン・タイラニーの「ハーヴェイ・ミルク(肖像画)」、デッド・ケネディーズの「I Fought the Law」、バンド・コクリートの「God is a Bullet」、1990年代初期にジョージア州アテネでメタルバンド「ハーベイ・ミルク」も誕生し、このグループは現在も活動している。オペラ「ハーヴェイ・ミルク」も誕生し、1999年の映画『Execution of Justice』でもミルクの暗殺が再現されている。 ブライアン・シンガー監督が、今年公開予定しているミルクの伝記映画 『カストロ通りの市長』を監督しているし、ガス・ヴァン・サントがショーン・ペン、ジョシュ・ブローリン、ジェームズ・フランコ出演で映画 『ミルク』の撮影にとりかっかている。
政治のことはよくわからないが、ドキュメンタリー映画で興味を持ったので、ぜひ、この2作品は観てみたいと思っている。

2008年6月8日日曜日

ブロークバック・マウンテン


 1963年のワイオミング州。季節労働者として牧場の仕事を捜していたイニスは、経営者のジョーのもとでようやく仕事につくことができた。放牧された羊使いを、ふたりでするという仕事。相棒は、昨年もこの仕事をしていたジャックという男だった。内向的なイニスに較べ、むやみに陽気なジャックは初め相性が悪いと思っていたが、今年の夏は協力し合ってブロークバック・マウンテンで過ごさねばならない。仕事はルーティン、法律で羊番は、食事以外は羊たちの近くで簡易テントで過ごさなければならず、焚き火も出来ない。夏とはいえ寒く汚いテントで眠るるのは体力的にも辛い。性格的に似通ったところのなかったふたりも、他に話す相手も頼る仲間もなく、次第に絆を深めていった。ある晩、気晴らしのつもりで飲み始め深酒になってしまい、イニスはベースキャンプで仮眠を取ることにした。ジャックを気遣い火を落とした薪のそばで眠ろうとするが、寒さに耐えられず、ジャックに促されて狭いテントに一緒に潜りこんだ。肌を触れ合わせ、気持ちの箍が外れたのか、ふたりは熱い抱擁を交わし、一線を超えた。自分はストレートであると思っていたし、秋が来れば町に戻ってフィアンセのアルマと一緒になることになっているイニスは一度きりの過ちだとジャックに告げ、ジャックもそう思うことにした。しかし、ふたりの間に結ばれた絆は強かった。この山深い中で唯一の温もりだったふたりの体と心は、その約束など意味のないことだった。夏が終わり、別れ際にイニスは自分でも予測し得なかった絶望に暮れた。イニスは予定通りアルマと挙式を挙げた。アルマ・ジュニアとジェニーというふたりの娘にも恵まれ、楽ではなかったが、幸せな日々を過ごしていた。ジャックも、虚無感に襲われながらもロデオで日銭を稼ぎ、ラリーンと結婚し、子供にも恵まれるた。農耕機具販売会社の社長である妻の父はジャックを蔑み、日々はストレスの連続だった。ジャックと別れてから四年後、イニスのもとにブロークバック・マウンテンの写真の絵葉書が届く。近いうちに訪ねる、という内容だった。胸躍らせ、ジャックの姿が見えるなり家を飛び出し、熱い抱擁を交わすふたり、熱情に促されるままジャックと激しく唇を重ねていたイニスは、その様子をアルマが見つめていたのに気づかなかった。モーテルのベッドで4年の歳月、どれだけ求めあっていたかを確認するふたり。ふたりはそれから20年間年に数回の逢瀬を繰り返していた。お互い、結婚生活は破綻していた。しかしその翌年、ジャックに届いた知らせは悲しいものだった。
 監督は『グリーン・デスティニー』のアン・リー。このあとに『ハルク』なんて作品も撮っているが、むしろ、この2作は異色な方で、長編映画デビュー作の『推手』から『ウェディング・バンケット』『恋人たちの食卓』『いつか晴れた日に』などはむしろ『ブロークバック・マウンテン』に近い心の動きを捉えた人間ドラマの方が得意な監督である。ボクもこのころから彼の映画を見ているので、今回の映画が『グリーン・デスティニー』の監督と聞いても驚かない。『ウェディング・バンケット』ですでにゲイの映画を取り上げているのでそれにも驚かない。今回、この作品でアカデミー賞の監督賞を獲ったのは喜ばしいことだと思う。ただ、残念なことに、スクリーン・ロードショウ両誌で2006年のベスト1に選出されているほかインディペンデッド・スピリット賞、ゴールデングローブ賞、イギリスアカデミー賞、ロンドン映画批評家協会賞、全米製作者協会賞、放送映画批評家協会賞、ニューヨーク批評家協会賞、ナショナルボードオブレビュー、ロサンゼルス批評家協会賞、ヴェネチア国際映画賞、フェニックス映画批評家協会賞、セントルイス映画批評家協会賞、フロリダ批評家協会賞、ダラスフォートワース批評家映画協会賞、サウスイースタン批評家協会賞、ラスヴェガス映画批評家協会シェラ賞、サンフランシスコ批評家協会賞、ゴールデンサテライトアワード、ボストン批評家協会賞で最優秀作品賞やグランプリを獲得し、アカデミー賞でも最多ノミネートをしながら3部門の受賞にとどまったのはまだ社会的に偏見があるせいだろうか。人種差別などにはアカデミー賞はかなり理解を得てきているが残念だ。
 保守的で閉鎖的な当時のアメリカ社会にあって、ゲイバッシングによる偏見からカップルが惨殺されたりする時代、そこで20年も育み続けた蜜月の愛の物語である。同性愛に真っ向から取り組んだドラマという側面からセンセーショナルな話題を振りまいたが、もう今更そんなものは珍しくない、表面的には。ただ、自分の夫がそうであったらどうだろうか、自分の息子がそうであったら,,,.。まだまだ本当の理解には至っていないだろう。それが解消されるまではこの映画は意味のある映画だ。単なる恋愛映画なのに。時代がそうだから、この映画の主人公ふたりは自分自身も政党作を否定している。しかし、絆を深め自然に関係が発展した様は普通の恋愛映画と同じだ。むしろ、恋愛を描いた映画の多くが成就した時点で終わってしまうのに、この映画はそれ以降の煩悶や悲劇にスポットを当てている。この映画は、距離を置いていたふたりが、信頼関係を築き上げていくところから始まり、始めて一線を超える箇所で細かな表現をする。躊躇と激情の入り混じる心情がつぶさに表現されている。その片鱗がお互い初めからあったような表現も見事だ。何気なくあからさまに小用をたすシーンなど、伏線も描いている。セックスをした翌朝の戸惑いから4年たって自分を受け入れていく変化が繊細に描き出される。ふたりは同性愛に限定されず、結婚もし、子供ももうける。しかし、結局は両者とも破綻する。
 社会の同性愛への蔑視と、当事者の意識の違いを織り込みながら、何ら男女間の恋愛とも変わらないことを言っているようだ。同性愛を特異に見ることなく、恋愛映画のセオリーに当て嵌めたうえで、情景のせいで悲劇を積み重ねていったことに注目したい。結構生々しく、露骨な表現にも拘わらず、ほとんどいやらしさを感じず、むしろピュアに見えるのはなぜだろう。美少年でなく無骨な男ふたりなのに。それは身近に起こりうることのように描いているせいかもしれない。なにしろ、やたら切なく哀しい映画だ。

◎作品データ◎
『ブロークバック・マウンテン』
原題:Brokeback Mountain
2005年アメリカ映画/上映時間:2時間14分
監督:アン・リー
出演:ヒース・レジャー, ジェイク・ギレンホール, アン・ハサウェイ, ミシェル・ウィリアムズ, ランディ・クエイド

2008年6月1日日曜日

フロント・ランナー


 大学生のビリー・シーヴは中長距離の陸上選手、彼は頭がよく成績も優秀で容姿も美しい、りくじょうに取り組む姿勢はあくまでストイックだった。しかし彼にはひとと少し違った性癖があった。ゲイだったのだ。澄んだ青みを帯びた灰色の瞳を持ち、フィルムのように煌く。彼はオリンピックを目指しコーチのハーランのもとで練習に励んだ。ビリーはオリンピックを目指してその特訓は時を経るごとに激しいものになっていった。ビリーは典型的な先行逃げ切り型のランナーでフロントランナーと呼ばれていた。先頭を守らなければならない。いつもそんな気持ちが彼の中に巣くっていた。一方、彼のコーチを引き受けたハーランは陸上選手から陸上コーチになり、その後、女性を妊娠させ結婚をし、子供もいる。ゲイであることを隠していたが、先週に言い寄られ断わったことでゲイを噂され職を追われたうえ、妻から離婚を迫られる。ハーランは男相手に体を売るようになる。しかし、再び大学のコーチとして誘われる。それは別の大学からゲイを理由に追放された3人の選手を受け入れてコーチするというものだった。ビリーはそのうちの一人だった。ビリーとハーランはオリンピックに向けさまざまな障害を乗り越えたどり着く。アスリート協会、オリンピック協会、ゲイであることはストイックで健全なアスリートには出場させまいと。しかし法の力を持って出場を果たした。愛した人としか寝ないというポリシーのビリーと選手には手を出さないというポリシーのハーラン。当然ふたりは結ばれるはずがなかった。しかし、出会ったときから日に日に惹かれあったふたり、ビリーは堪えかねてモーションをかけた。それを酷く扱うハーラン。ふたりはついに映画館で気持ちを通わせる。一途なビリーはハーランしか頭になかった。しかし、現実は厳しかった。フロントランナーの背後で最後の1週で抜き出ることを狙うキッカーたちに捕まってしまう。ゲイの人権を獲得するための先頭を走り続け、ゲイを拒むキッカーたちに打ち落とされてしまうのだった。
この物語はコーチのハーランの視点で描かれている。「スポーツマンは健全な精神を持て」というプレシャーは暗黙のうちにゲイを健全でないと位置付けている時代だったのだ。この物語を書いたのはパトリシア・ネル・ウォーレンという女流作家である。女性がよくここまでゲイの心理を描いたものだと思う。書かれたのは1970年代。まだまだ偏見も差別も酷い時代だ。無関心や無理解ではなく、嘲笑・圧力・迫害という形で拒否される。その中で、カミングアウトした状態で戦うわけである。他人に迷惑をかけていない人々の内的な心に土足で踏み入り、掻き回す権利が誰にあろうか。
 当時この小説はゲイリブとしてアメリカ全土のスポーツのフィールドにセンセーショナルを巻き起こした。翻訳は北丸雄二。よくこの甘い甘い表現をこの時代の日本人が愛情を持って翻訳してくれたものだ。
 ラストは壮絶でビリーの死を以て終わる。なぜ悲惨な物語にする必要があったのか、幸せなまま自由も手に入れ終わらせることはできなかったのか。ビリーは考えていた、陸上だけでなくすべてにおいてフロントランナーとして終始トップを走り続けゴールすることで初めて自由が得られるのだ、と。それは踏みにじられた結末だった。
 この後、続編で「ハーランズ・レース」という小説が出版され、同者によって翻訳されている。ビリーを射殺した犯人を追う物語。前作の1976年モントリオールオリンピックでのビリーの事件について1978年5月に判決が言い渡された後から解決する1981年までを中心に、ラストは1990年の場面で終わる。ハーランは絶えず誰かに狙われ、私生活を脅かす存在に悩み続ける。ベトナム戦線帰還兵の傷ついた精神もエイズを病む人々も、時代の象徴的な傷跡に癒しを求め苦しんでいる人々それぞれが孤独を抱え込んでいる。でも人は独りでは生きられない。ハーランが人を愛するということについて、また愛を受け入れることについて、我々の痛みを代弁する。ゲイの読者には寂寥感が残る。またも問題作となっていた。「フロント・ランナー」のときはまだエイズは存在しなかったから、エイズの出現によって再び同性愛者が敬遠されるようになるわけだ。このエイズという悪魔の出現に前後して書かれたこの2作をボクらは大事に読まなければならない。
 実はこの「フロント・ランナー」が書棚からどうしても捜せず、読み直せなかった。そして、「ハーランズ・レース」はボクは購入してないし読んでいない。今、改めて読んでみたいと思う。何とかして2冊手に入れなければ。

「フロント・ランナー」原題“The Front Runner”, パトリシア・ネル・ウォーレン著, 北丸雄二訳, 第三書館, 1990年9月発売, 1800円
「ハーランズ・レース」原題“Harlan’s Race”, パトリシア・ネル・ウォーレン著, 北丸雄二訳, 扶桑社1997年5月発売, 1900円

2008年5月26日月曜日

さらば、わが愛 覇王別姫


 1930年代の中国の北部、娼婦の私生児である小豆子は、生まれつき本の指を持っていた。それを理由に入所を拒まれていた彼は、母親から指を1本切り落とされ無理やり捨てられるように京劇俳優養成所に預けられた。娼婦の子といじめられる小豆子をいつも助けてくれたのは、先輩の石頭。やがて小豆子は、石頭に同性愛的な想いを抱くようになる。成長した小豆子と石頭は、それぞれ程蝶衣と段小樓という芸名で、『覇王別姫』という芝居で項羽と虞美人を演じトップスターになる。蝶衣は相変わらず小樓を想っていたが、日中戦争が激化すると、小樓は娼婦の菊仙と結婚。深く傷ついた蝶衣は京劇界の重鎮・袁四爺の庇護下で小樓との共演を拒絶した。1960年代になると、中国全土に文化大革命の嵐が吹き荒れ、京劇は堕落の象徴として禁止されてしまう。芝居しかできない蝶衣と小樓も世間から虐げられるようになり、蝶衣、小樓、菊仙の3人は、極限まで追い詰められる。そして彼らの互いへの愛憎と裏切りの果てには、大きな悲劇が待ち受けていた。
 1993年のカンヌ映画祭で『ピアノ・レッスン』と同票でパルムドールに輝いた本作は3時間弱に及ぶ大作である。ゴールデングローブ賞、ニューヨーク映画批評家賞、ロスアンゼルス映画批評家賞の外国語映画賞も獲得している。監督のチェン・カイコーは映画監督の父とシナリオライターの母の間に生まれた映画監督になるべくしてなった環境で育ち『黄色い大地』で監督デビューした。デビュー作でいきなり認められ『人生は琴の弦のように』などの秀作を経て本作に至るが、以後も『始皇帝暗殺』などの大作を作り上げ『キリング・ミー・ソフトリー』でハリウッドデビューも果たす。個人的にはハリウッド進出後の『北京バイオリン』がとても好きだ。
 一方、俳優陣も注目せざるを得ない。女形の蝶衣を演じたレスリー・チャンはアイドルを経てこのころからキャリアを踏んだ俳優に転向し大成功したと言える。2003年の4月1日香港の最高級ホテル、マンダリンオリエンタル香港から飛び降り、自殺しているのが悔やまれる。46歳だった。私生活でもホモセクシャルを公言しており、自殺1年くらい前から欝病を患っていたと言われている。この仕種は本当に女性かと思わせるしなやかさだ。そして、小樓の妻菊仙を演じたコン・リーも今はもう大女優の域に達しているが、この頃は凄い女優が出てきたと度肝を抜かれた。彼女の情念を感じる演技は恐ろしいほどである。
 子供の頃の養成所での厳しさは文化や芸術の重みを感じさせるが、そこに生まれる戒律は、今日劇に対するこだわりや頑固さにつながっているが、それは自信でもあり、失うと大きな痛手となるものだ。なんだか周囲の無理解や不条理がレスリー・チャンの実生活と重なる。レスリー・チャンはこの役柄が役の捉え方を間違っている、俳優としての彼を認めない、と自分の役を分析している。果たして彼は実生活で何を信じ、何を演じ、何を求めていたのだろうか。何に迷っていたのだろうか。
 しかし、この映画では、そういった特殊な世界であるだけでなく、清朝崩壊後、文革期への時代背景、共産党政権樹立、廬溝橋事件など数々の事件や日中戦争、文化大革命、人民軍解放など社会的事件や戦争、革命が複雑に絡み合い、そこに深い嫉妬や憎悪が渦巻く。後半は人間裁判に及ぶ。蝶衣と小樓を尋問するシーンの連続は痛みしか感じない。そしてなぶり者にされての暴露シーン、お互いがお互いを非難するしか道はなかったのか。同性愛と兄弟愛と夫婦愛、それぞれが深いはずなのに、なぜこうなってしまうのだろうか。3時間弱悲惨なシーンを見続けるのはとても体力のいるものだ。だが、そこにはどうしようもない背景と、どうしようもない欲望と、どうしようもない嫉妬と、どうしようもない憎悪が連鎖のように描かれていて、あまりに凄まじく、同情とか憐憫の範疇を超えて、観ていて辛い。
 禁断の愛と歴史の傷、簡単にふたつの言葉では言い表しえない奥深さが、ボクの胸を突いてやまない。

◎作品データ◎
『さらば、わが愛 覇王別姫』
原題:覇王別姫(英語タイトル:Farewell My Concubine)
1993年香港・中国合作映画/上映時間2時間52分
監督:チェン・カイコー
出演:レスリー・チャン/チャン・フォンイー/コン・リー/ルォ・ツァイ/クー・ヤウ

2008年5月18日日曜日

エルトン・ジョン


 エルトン・ジョンとの出会いは「僕の歌は君の歌」を聴いたときで、それがだれのどんな歌かも知らなかった。多分、始めて洋楽に色気を持ち出した小学生高学年のことだったと思う。彼が両性愛者で、人物として興味を持ち始めたのはたぶんもう20代に入ってからだろ う。まあ、特に好きなわけではないけれど、歌に関してリスペクトはしている。

 エルトン・ジョンは、に1947年3月25日にイギリスのミドルセックス州ピナーでRAFの飛行中隊長だったスタンリー・ドワイトと妻シェイラの息子として生まれた。本名は、レジナルド・ケネス・ドワイト。彼は母親や親戚の女性に育てられ、父親と過ごした時間はわずかだった。ドワイトが15歳の1962年に離婚、母親はその後再婚し、義父をダーフという愛称で呼んでいた。
 4歳から、ピアノを弾き始め、耳で聴いたメロディーをすぐに演奏し神童と呼ばれた。11歳のときに王立音楽院に合格、音楽に専念するため、6年間在学した。
 1969年友人とコルヴェッツというバンドを結成。このバンドがやがてブルーソロジーに発展する。昼は音楽出版社への売り込みに奔走し、夜はロンドンのホテルでの単独ライブか、ブルーソロジーとして活動をしていた。1960年代半ばまで、ブルーソロジーはバックバンドとしてツアーを行った。リバティ・レコードのミュージシャン募集広告に応募し、これが今日まで続くレイ・ウィリアムズとのパートナーシップの始まりとなった。1967年バーニー・トーピンとの最初の共作曲「スケアクロウ」が書かれる。トーピンと出会って半年後、尊敬していたバンドでサポートをしていたロング・ジョン・ボルドリーとブルーソロジーのサックス奏者エルトン・ディーンの名にあやかり、自分の名前をエルトン・ジョンに改めた。ジョンとトーピンで、1968年にディック・ジェイムズのDJMレコードにソングライターとして入社し、様々なアーティストに楽曲を提供した。トーピンが1時間未満で歌詞を書きジョンに渡し、ジョンは30分ほどでそれに曲をつけた。音楽出版社のスティーヴ・ブラウンの助言により、自分のデビューレコードのために、トーピンとより複雑な曲を書き始める。最初の作品は1968年のシングル「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」だった。1969年には、シングル「レディ・サマンサ」とアルバム『エンプティ・スカイ』を録音した。これらは高い評価を得たものの売り上げは芳しくなかった。ソロデビュー後も、スーパーなどで名前を隠して歌ったり、オーディションを受けるなどして、音楽活動を続ける。
 彼がようやく花開くのは1970年のセカンド・アルバム『僕の歌は君の歌』。先行シングル「僕の歌は君の歌」が全米トップ10ヒットの売り上げを伸ばした。1972年から黄金期を迎える。アルバム『ホンキー・シャトー』が初の全米1位を記録、1975年の『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』まで、彼は7枚連続で全米1位に送り込んだ。本国のイギリスでも『ピアニストを撃つな!』が1973年度の年間チャート1位になるなど、彼の人気は世界的なものとなった。1974年には所属していたMCA傘下にレコード・レーベル、ロケット・レコードを設立。以降彼のアルバムはこのレーベルから発表された。1973年発表の2枚組『黄昏のレンガ路』は、現在も一般的な彼の最高傑作として評されているる。1975年のアルバム『キャプテン・ファンタスティック』は、全米ビルボードのアルバムチャートで史上初となる初登場1位を記録、1974年に発売されたベスト盤『グレイテスト・ヒッツ』は、彼のアルバムとしては最も大きな商業的成功を収め、米国では歴代15位のベストセラーとなっている。1974年には映画『トミー』に出演している。
 1976年ののキキ・ディーとの「恋のデュエット」以降、ハイペースでのレコード発表とステージ活動が精神や肉体に支障を来した。アルバム『ロック・オブ・ザ・ウエスティーズ』は商業的な成功を収めながらも評論家からは酷評され、プレッシャーから彼の心に迷いが生じ、アルバム『蒼い肖像』を発売すると彼は引退を表明して音楽活動を休止する。このときローリング・ストーン誌で両性愛者であることを公表した。約2年の活動休止期間を経てカムバックしたが泣かず飛ばず、1980年代を通してのシングルでほぼ毎年ヒット曲を連発していたが、常に全盛期のイメージと比較され、ヒット曲が出る度に「エルトンの復活」と称された。しかし、全盛期との違いとしてアルバム・セールスは大きく伸び悩み、1987年に行った長期公演では喉を悪化、声帯の手術を行っている。以降、彼のヴォーカル・スタイルおよび歌声は大きく変貌した。
 彼は1984年にドイツ人のレコーディング・エンジニア、レネーテ・ブリューエルと結婚。彼女との結婚生活はさまざまなスキャンダルを呼び、最終的には4年後の1988年に離婚に至った。1980年代後半の彼は精神的にも不安定で、過食症やアルコールの過剰摂取がエスカレートしていた。1990年、薬物とアルコール依存症、過食症の治療のため入院。更生施設への入居を経てカムバックしたジョンは、翌年のアルバム『ザ・ワン』で再び好調なセールスと高い評価を得る。多くの友人や知人などをエイズで亡くした彼は、1992年以降シングルの全収益を自ら設立したエイズ患者救援者団体、「エルトン・ジョン・エイズ基金」に寄付するようになった。
 その後の彼は順調にそこそこのヒットを生産しグラミー賞最優秀ポップ男性ボーカル賞とアカデミー歌曲賞を受賞するなど高い評価を受けた。1997年9月ダイアナ元皇太子妃への追悼歌「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997」をシングル発売する。この曲は全世界で3700万枚以上のセールスを記録。ビルボードHOT100とシングルセールスチャートで14週、カナダの公式シングルチャートで46週、その他日本をはじめとする世界各国のヒットチャートで首位を獲得し、シングルとしては史上最も多くの枚数を売り上げた。この楽曲の成功により、ジョンは1998年度のグラミー賞で最優秀男性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞している。1998年にはミュージカルや映画サントラ盤などにも進出した。
 最近はミュージシャンとしての活動そのものよりも、かつて親交が深かったジョージ・マイケルやマドンナといった他の歌手への批判、中華民国のパパラッチに対する暴言など、過激な言動や奇行などが取り沙汰されることが多い。また2005年には、イギリスで同性同士の準婚関係を認めるシヴィル・パートナーシップ法の制定を機に、15年来のパートナーだったデヴィッド・ファーニッシュと同性結婚し話題を呼んだ。
 現在は本名もレジナルド・ケネス・ドワイトからエルトン・ハーキュリーズ・ジョンと改名し「サー」の称号も得ている。 長年自身の容姿に劣等感を持っていたことをインタビューなどで語っている。1970年代の前半ごろから既に頭髪が薄くなりカツラを使用していた。1990年代に植毛手術に成功。21世紀に入っては視力矯正手術も受けている。繊細さと荒々しさを併せ持つ性格で、過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在。一方取材に対して饒舌で、舌禍事件を起こすこともしばしばある。自身のコンプレックス、同性愛を笑い話として披露することも多い。交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならずデビッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。

 かなりはしょっても、こんな長くなってしまった。ゲイシーンへの関与はボクらに勇気と自信を与えてくれる。そんな背景の中での音楽をボクは20歳代とは違った気持で感慨深く聴いている。

2008年5月15日木曜日

司祭


 リヴァプールの労働者区域の教会に熱意に燃える新任司祭のグレッグが就任した。主任司祭のマシューはリベラルな考えを持ち、左翼的な説教をし、しかも家政婦のマリアと愛人関係にあり、保守的なグレッグを驚かせた。しかし、グレッグには秘密があり、夜な夜な皮ジャンに着替え自転車に乗って繁華街に出かけてゲイバーで男を物色していたのだ。厳しい現実に自信を失いかけていたグレッグはゲイバーで出会ったグレアムと肉体関係を結んだ。グレッグは罪の意識に駆られるがその一方心の奥では彼を愛し始めていた。ある日、グレッグは告悔で高校生のリサから父に犯されているという事実を知ってしまう。立ちはだかるのは守秘義務。母親にも、福祉局にも事実を伝えられない。父親本人に会うがまるで意を介さない。グレッグはどうしようもない心に慰めを求めてグレアムとデートを繰り返す。しかしグレアムが彼のミサに来ると、グレッグは彼への聖餐を拒んでしまう。ある午後、リサの母がたまたま早く家に帰って夫が娘を犯しているのを目撃する。彼女はなぜ教えてくれなかったとグレッグを非難する。絶望したグレッグはグレアムに会い、二人は車の中で愛を確かめ合う。これがもとでグレッグの同性愛が露呈し、裁判沙汰になってしまう。彼は自殺未遂の末に僻地の教会に転任させられた。その間もマシューは偏見に負けてはならないと説き伏せる。始めはマシューとの意見の食い違いに反発を感じていたグレッグだが、真摯な誠意に、マシューと一緒に祭壇に立つことを決意する。日曜日のミサ、一部の信者は怒って席を立ち、残った信者も聖体拝受をグレッグから受けようとする者はいなかった。ただ独りリサを除いては。グレッグは彼女を抱きしめ、許しを求めて涙を流すのだった。
 今でこそ、許容の枠の広がった同性愛だが、この当時はまだ、政治的にも争点になっていた。しかも、司祭という職業と同性愛という性嗜好はあまりにも相容れない。欧米各国の政治的見解と、教会の権威、信仰層の保守化から、公開された各国から烈しい議論が巻き起こり、ローマ法王から抗議声明文が発表された。これがアメリカ公開にも影響を受け、さらに日本上陸には時間がかかり1994年製作にも拘わらず、日本公開は1997年となった。いまでこそ、こんなことでこんな問題にはならないだろう。しかし、「映画靖国問題」を彷彿とさせる。
 実は、この映画を観たとき、ゲイバーに通ってはだめだ、自業自得だと思った。もっと隠れたやり方があったはずだ。しかし、この苦悩と不条理感は痛いほど伝わる。ボクは無新論者だが、たとえば、今の職場でカミングアウトすることはタブーである。宗教的な罪の意識に関しては共感に困難を憶える。だがちょっとオープンにしすぎなボクには批難しきれない部分がある。そしてこういうことが絶対起こらないとは限らない。他にゲイを描いた映画はたくさんある。ゲイは病気じゃないか、ゲイは秘密にしなければならない、そういう視点で描かれるが、ここでは司祭であるがゆえに自分の本能的な肉欲を罪の意識として捉えるところにほかの映画と違う切なさがある。罪深さがある。だからこそ、ボクは自分も罪の意識を感じなくてはいけないのか、と涙するのである。自分のゲイは罪なのか。そう思えてしまう。
ただ、リサを助けられなった情けなさと熱意だけでは通らない不条理さは、設定が違えばだれでもあることだ。なぜ同じ人間を愛して悪い?司祭だから? 最後、リサを抱きしめて嗚咽して涙するシーンは実に痛ましい。ボクには彼を責められない。違うやり方があったにせよ、彼の苦しみはあまりにリアルだ。人を助ける、これは簡単なようですごく難しいことだ。結果、最後のミサを終えたグレッグはどうなったかわからない。リサを泣きながら抱きしめるシーンが遠景になって終わる。少しだけ救われた、そういう気持ちを残して終わる。リサを助けられなかったのはゲイだからではない。司祭だからだ。守秘義務のせいだ。しかし、彼が信頼を失い、説得力を失くしたのは、ゲイが露呈して、信者からある意味司祭としての資格を剥奪されたかのようなバッシングを受けたからである。それはさらにリサを救えない原因に拍車をかけたことになる。
 ベルリン国際映画祭で批評家国際連盟賞を受賞している。この後アントニア・バード監督は『マッド・ラブ』という精神に異常をきたし時に発作を起こす少女を愛す恋愛映画を撮っている。これもかなりシリアスだ。好きな作品である。しかし、この『司祭』の辛辣さには少し敵わない。残念ながらデビュー作のこの作品が最高作品となってしまったようだ。
 
◎作品データ◎
『司祭』
原題:Priest
1994年イギリス映画/上映時間:1時間45分
監督:アントニア・バード
出演:ライナス・ローチ,ロバート・カーライル,トム・ウィルキンソン,キャシー・タイソン,レスリー・シャープ

2008年5月4日日曜日

YES・YES・YES


 自分の中に「歌」がないことに気づいたジュンは、自らを傷つける道をとるために、セクシャリティと異なる世界に踏み込む。男が男を買いに来る売り専バーで働く17歳のジュンは、毎夜そこへやってくる男たちとの絡みや交わりから、何かを知っていくこととなる。
 と、内容を説明しようとすると、ほぼ全体の7割を占めるベッドシーンの羅列で、短絡的なあらすじ説明になってしまう。しかし、そう簡単なものではない。おいおいセリフやシチュエーションを引用して補足したいと思う。
 まず、これは1989年暮れに発売されたもので、今ほどゲイに対して状況が受け入れられていない頃の小説であること、1960年東京生まれの著者比留間久夫氏本人がゲイであること、それを念頭に置いてほしい。ボクが読んだその当時26歳は、普通にごまかしていたこともあり、ちょっと衝撃的な世界ではあった。知ってはいたが、ここまで事細かに書かれるとそれなりに衝撃は受けたのである。
 ノーマルな方にわかりやすく言うと、女の子がだれかに対して初めて足を開くということがどんなに刺激的か、相手を受けいれるとどんな感情になるか、行為の最中に涙を流すというのはどんな気持ちか。女性が多分誰でも知っているだろう感覚を、ノーマルな少年が男相手に自分の体を使って知ってゆく物語という感じだ。この発想はノーマルな方たちには驚異的なことだろう。ただ、ボクには衝撃ではあったけど、そこまでレアな感覚はなかった。主人公のジュンは、自意識過剰で内に籠った苦悩から、自分がとても蔑んでいるような相手に身をまかせて自分を壊してしまいたいという勝手な理由で男に体を売ることを決意するのである。結果、壊れずに終わるのだが、売春としての意識が目覚め、プライドが明確になり、優しさを覚えてゆく。男に体を売るということが、実は多少の愛情を持てなければ勤まらないもだといわんばかりだ。
 中に登場する椿さんや歌舞伎のママたちに対する筆者の愛情溢れる描写は化けもの扱いしているくせにとても愛情深く、多分いずれ紹介するだろう映画『メゾン・ド・ヒミコ』のような描き方である。例えば、椿さんのアザラシみたいな尻を前にタチ役をこなさなければならなくなった主人公が、「これはニューギニアの人食い人種の女だ……」と自分に言い聞かせるくだりなどはユーモアに溢れている。そもそもの理由がそんなだから惚れたはれたはなく、冷淡な洞察で「男」としての意識が脱がされていく感じを味わったと言えばよいか。
 とはいえ、一般小説の読者としてはかなりのダメージを与えるわからない感情かも知れない。文学的とはほど遠く、生々しいから、生理的に嫌悪感を憶える方はいるだろう。
 処女小説としては、多分その頃、勢いは充分で迫力さえ感じた。これで比留間氏はベストセラー作家となり、第26回文藝賞を受賞し、第3回三島由紀夫賞候補にもなる。その後の作品「ハッピーバースデイ」「ウルトラポップ」「不思議な体験」などの方が評価は高いようだ。1999年の「文藝」への投稿を最後に今は何をしているのよく知らない。
 正直言うと、オタク的視点で書かれているような気がして「エデン」や「ナルシス」といった単語の使い方に偏りを感じます。チャプターごとに同じベッドシーンや相手の男たちへの思いが違っていて、飽きはしない。すぐに読み切れる。ラストシーンも結論的なものを曖昧にしていて受け取り方は、多種多様だと思う。自虐的な青春文学と思うと読みやすいかも。 もし、主人公が女の子なら、今の携帯小説に通じる感じを受ける。
 なぜ自分を壊さなくてはならなかったのかのかは最後まで明かされない。若い頃に誰もが感じる青臭い虚無感みたいなものを感じるされるだけだ。
 ここでは主人公はノーマルだから、少し感情が違う。でも、マイノリティを意識し始めたボクは同じような空洞を経験してるのだと思う。新宿二丁目に足を運べば、やはり、違う。ボクがマイノリティから大多数の中の一人に一変し、何も罪悪感を感じない。だが、それはほんの街の一角。きっと、ノーマルの人たちには違和感ある空間だと思う。あそこは何か焦っている人間が引きつけられるような雰囲気を持っている。自己陶酔と自虐がこの小説のすべてのように今は思う。あれから20年を経たボクには何も衝撃は今は感じない。妙に達観した冷めた目をして読むことができる。皮膚で感じる繁華街の光景がとても鮮烈ではある。夜明けの繁華街の汚れた急に現実に帰ったような感じ、まだ、酔い潰れた人が公園で新聞を被って寝ているような風景。あんな虚無感から優しさを理解してゆく印象は実に妙だ。でも、その経験も、同類と話し込んだ夜もみんな今に至るボクには必要なんだったんだと、今、この本を読み返して思う。
 河出書房新社1200円。文庫も出ている。480円。文庫の方が捜しやすいかも。

2008年4月27日日曜日

トランスアメリカ


 若い頃から男性であることに違和感を抱き、女性として独りLAで慎ましい生活を送るブリー。肉体的にも女性になるため最後の手術を控えていた。その矢先彼女の前に、突然トピーという少年が出現。スタンリーという名の父親を捜しているという。彼はブリーが男性だったころにたった一度の経験で出来た息子であることが判明する。しぶしぶ自分の手術費用を使ってニューヨークへ向かうブリー。ブリーは、自分の正体を明かさないまま、トビーを継父の暮らすケンタッキーへ送り届けようとする。
女性の心を持ちながら、体は男性として生まれてしまった性同一性障害の主人公の葛藤をモチーフにしたハートフルなロードムービー。愛を忘れてしまった親、愛を知らない息子の複雑な関係を、新進気鋭の監督ダンカン・タッカーが、初監督作品とは思えない手腕で描き出す。出会う予定ではなかったはずの、お互いに痛み多き人生を歩んできた2人が、この特別な旅を通じて成長してゆく様子を、ユーモラスであり、そして切なく描いている。
 まずは父親から。TVドラマ「デスパレートな妻たち」の女優フェリシティ・ハフマンが、性同一性障害の中年男に扮し、夢と親心の間で揺れるヒロインを好演している。女性に変わる直前の男性、という難役を、絶妙なぎこちなさと圧倒的なリアリティで演じきり、アカデミー主演女優賞にノミネートされたほか、ゴールデングローブ賞主演女優賞を獲得するなど高い評価を受けた。ときどき出てしまう男の癖などを微妙に演じているところに凄さがある。この人物像を作り上げた彼女も凄いが、それを引き出したダンカン・タッカーの演出と脚本も凄いのだと思う。
 そして息子、本当の父親の姿を知らないまま、ドラッグや売春に手を染める息子のトビー。彼も、難しい心理描写をさわやかに演じている。彼あってフェリシティ・ハフマンの演技は生きていると言える。父親を肉体関係へ誘う様子は実にうまく演じている。
 タイトルの『トランスアメリカ』は「アメリカ大陸横断」の意味で、第三の性を表す「トランスジェンダー」に掛けたものだ。保険会社にも「トランスアメリカ」という名の会社があったりしてウェブサイトで名前が交錯して問題が起きたりしたというエピソードがある。また、ボードゲームにも「トランスアメリカ」というのがあり、自分が指定されたアメリカ大陸の五都市を線路で繋げることを目指すゲームなのだが、父親・母親・息子そしてそれぞれの過去とを結び付ける線を捜すゲームの意味合いも含ませているとは読み過ぎか。ドリー・パートンがこの映画のために書き下ろした「Travelin' Thru」も歌曲賞でオスカーにノミネートされた。受賞こそ逃したがこれがまたいい。
 人間ドラマとも言えるしロードムービーともとれるこの映画は、まず自分が父と名乗れないことから親切な教会の女の人を装い、トビーの父親探しの旅に付き合うことにするところから最初の軋みが始まる。幼い頃に父に捨てられた息子が、その父と知らず奇妙な女と旅をするわけだ。2人の再会にはじまるが、彼にとっては初対面だ。道中全ての出来事が、ある一定の緊張と距離を保ちながら進んで行く。これが妙なおかしさを醸し出している。ブリーは息子に懺悔の気持ちと、真実を語れない後ろめたさを感じている。トビーは、それを愛と勘違いし、愛を告白してしまう。だがそのおかしさは胸の詰まる思いのするおかしさだ。少しずつ近づいていく2人に、突然また軋みが訪れる。トビーがブリーは男であると知ってしまうのだ。性同一性障害本人が抱える苦悩、その家族の想いやり、胸に残る感慨は深い。ブリーは、手術費を稼ぐためにいやな仕事を齷齪掛け持ちした。友人の人もいない彼女は、そのひとの目に触れない仕事で、見えない存在となり、完全に女性になったら、過去を捨てて人生をゼロからやり直そうと考えていた。彼女の母親とのやりとりからは、ブリーが現在のような運命をたどった理由の一端が垣間見られる。かつて息子を自分の思いのままにしようとした母親は、今度は孫に同じ思いをさせようとする。そして、実家から飛び出してストリートキッズとなったトビーは、いたたまれずに実家から飛び出したブリーを理解する。おそらく監督は性同一性障害を抱えてしまった不幸な人間ではなく、ひとから理解されない人間の不安や孤独を描きたかったのではないだろうか。これだけではなく背景には、実際の母親はこっそりトビーを産んで夫のDVに遭っている。夫はトビーを手籠にする。そしてトビーもゲイとなる。警察沙汰も起こす。背景は多すぎる。監督の主人公や息子に対する細やかな描写とは裏腹に、詰め込まれ過ぎた背景がすべて重すぎて綿密に描き切れていないのが残念だ。でも、多分、それは複雑であればあるほど主人公は混乱し、逃げようとする人格を形成してしまったり、嘘を貫き通そうとしたり、その結果、完全な父親にはなれず、かといって母親にもなれず、もっといえば完全な女性にもなりきれず、完全な人間にもなりきれなかったのではないだろうか。自分のなぜかこんな風になってしまった運命がはっきりしていれば、もう少しましな人生が送れた気がする。だから、その辺は単なる背景として見ればよいのだ、きっと。詳しく描く必要のない、でも要因として含みたかった過去のエピソードなんだろう。とはいえ、残念ながらその辺の雑さは軽薄とはいかないまでも、軽い映画になってしまったのは事実だ。重い映画である必要はないし、これでいいのだろう。しかし、もっと苦悩を伝えるのなら話は別だ。その辺が難しい。もっと痛みを直接に感じる切なさを持っていてもよかった気はする。煮え切らない中途半端さが残る。
 しかし、最後には手術をして強い女性になりそうな片鱗を窺わせて終わるから、この映画はそれでいい。そう、思う。
 最後にこのサイトならではの感想をひとつ。立ちションで男がばれるのはいただけない。この女優、立ちションだけは下手だったと思う。しょうがないか。

◎作品データ◎
『トランスアメリカ』
原題:Transamerica
2005年アメリカ映画/上映時間:1時間43分
監督:ダンカン・タッカー
出演:フェリシティ・ハフマン,ケヴィン・セガーズ,フィオヌラ・フラナガン,エリザベス・ペーニャ,グレアム・グリーン

2008年4月19日土曜日

中村 中


 中村中の出現は衝撃的だった。
ボクがはじめて彼女を見たのはフジテレビ系TV番組「僕らの音楽」。おととしの9月に安藤優子のインタビューに答える形の対談で、自らの生きざまを語り、ボクらにまざまざと見せつけた。涙をしながら語る彼女のひと言ひと言が重く重く圧し掛かる。そして岩崎宏美とのデュエットによる「友達の詩」の披露。この歌詞の深みに15歳の時の詩とは思えない表現力と力強い弱さを痛烈に感じた。
 正直、このあといくら彼女を見ても、このときの衝撃には敵わない。
 本名、中村中(ナカムラ アタル)、昭和60年6月28日東京墨田区に生まれる。
 現在22歳のシンガーソングライター。
 幼少より母が歌っていた研ナオコの「泣かせて」をきっかけに歌謡曲に親しみ、歌う事以外にほとんど興味を示さなかった。10代初め、自身の声に違和感を覚えだし、人前で声を出すことを嫌うようになる。そしてピアノを始めた。15歳から作曲を始め、自己表現を歌詞で見せつけ、独特の感性を作り上げた。自分の声と向き合うことに悩むが自分の想いは自分の声で伝えなければならないとキーを試行錯誤し、自ら歌うことを決意し、結果、その声は、ボクらの心を捉えた。
 2006年6月25日、エイベックスのシークレットライブに出演、同年6月28日、21歳の誕生日にシングル「汚れた下着」でデビューする。舞台にも歌姫役としての出演を経て、その年の9月6日に、「友達の詩」を、満を持してリリース。以降の活躍は言うまでもない。オリコンでベストテンに入り、紅白歌合戦にも出場を果たす。

 性同一性障害。ボクは性同一性障害ではないが、恋愛対象にマイノリティを感じるのは同じだ。そこに生まれる軋みやしがらみは似通っている。彼女はそれを売りにすることに嫌悪感を憶えた。しかし、それを隠していては真実の自分を表現できない。彼女はどう見ても女性にしか見えない。ニューハーフにも見えない。彼女の確固たる自我と勇気には脱帽する。
 彼女のオフィシャルサイト「恋愛中毒」でブログをときどき覗いたりする。実は、じっくりアルバムを全曲聴いたとか、彼女のドラマや舞台を見たわけではない。ボクは直接の彼女のインタビューやメッセージがいちばん気になる。歌もきちんと聴いたのは「友達の詩」と「汚れた下着」くらいだ。「友達の詩」以外はそんなに無茶苦茶好きだということはない。ただすごく気になる人物、興味のある人物であることは確かだ。
 ボクは、周りにカミングアウトをしていない。ただ、執拗に隠しているわけではない。“公表していない”だけだ。病気(鬱)のせいもあるが、わざわざパワーのないときに荒波に飛び込む必要がないと思っているだけ。でも、公表すれば、楽になるかもしれないが、生理的に受け入れられない人は出てくるだろうし、接し方が変わっていくと思う。鬱をカミングアウトするだけでもこんなに大変なんだから、ゲイをカミングアウトすることはもっと大変だろう。二重苦だ。ここでだけは正直になろうとしたわけで、多分、ボクが書いている他のブログとは思い入れも違い、大胆さも違うだろう。豆腐で検索すれば、このブログも検索出来てしまうかもしれない。そのデメリットさえ、覚悟の上での行動だ。立ち向かいたいとか、社会と闘いたいとか、自分を認めてもらいたいとか、ハラスメントに問題提起しようとか考えていない。ただ、素顔の自分を吐露したいと思うだけだ。

 彼女の歩いた道を良く見つめて、自分の人生の、生き方の、参考にさせてもらいたい。力をもらいたい。

2008年4月17日木曜日

マイ・プライベート・アイダホ


 ナルコレプシー―緊張すると睡眠発作を起こし意識がなくなる―この持病を持つマイクはポートランドの街角に立ち、体を売っては日々暮らしていたストリートキッズ。そんなマイクにはポートランド市長の父を持つ親友のスコットがいた。彼も男娼をしていた。ある日マイクは、スコットに愛を打ち明ける。それを受け入れきれないで理解しようとするスコットはマイクを捨てた母をマイクと一緒に捜す決心をする。兄リチャードが暮らす故郷アイダホ、その道路はマイクにとってとっておきの風景だった。会えば喧嘩をする兄から手掛かりを得、スネーク・リバー、イタリアへと旅をする2人。しかしマイクは、イタリアで、スコットとは進む道が違うことを思い知らされる。イタリアで恋に落ちたスコットは、父親が病魔に冒されていることを知り、21歳の誕生日を境に生まれかわることを秘かに自分自身に誓い彼女をフィアンセとする。一方、マイクは母がアメリカヘ帰るといったまま消息を断ったという知らせを聞き、悲しみにくれる。マイクは淋しく独りでポートランドに帰り着き、またホモの男たちに抱かれる毎日へと戻った。キッズたちを仕切っていたボブを、高級スーツに身を包んだスコットは、冷たくつきはなした。深い絶望の中、ボブは自らの命を絶つ。彼の葬儀の日、スコットの父の葬儀も行われ、立派な儀式の隣りで、ボブへのキッズたちの心からの弔いが行われる。スコットとマイクは目と目を合わせるが、2人はもはやお互いが遠く離れてしまったことを思い知るだけだった。1人きりになったマイクは、アイダホの長い1本道でナルコレプシーの発作によって眠り続ける。1台の車が通りかかり金と荷物を奪っていく。さらに、1台の車がやってきてまだ眠っているマイクを連れて通り過ぎていった。

 ホモセクシャル、近親相姦という要素をバックグラウンドにし、一風変わったロード・ムービーとも言える様相を呈したこの映画をボクはゲイのブログの最初の記事に選んだ。「家族」とアイデンティティを求めて旅する姿がテーマと言える。監督のガス・ヴァン・サントは、眠りに落ちたマイクの夢に常に母親のいる風景を描き、家への回帰をポエティックに描いている。
ゲイの男娼のマイクを演じるリバー・フェニックスはその個性を見事に発揮している。彼にしか出せない雰囲気だと思う。バイセクシャルであり結婚して全うな道に戻ることを選んだスコットを演じるキアヌ・リーブスもその劇中の変貌ぶりを演じ切っているが、やはり、リバー・フェニックスの個性あふれる演技は難しい役どころをとても自然に見せている。ホモセクシャルとバイセクシャルの微妙なずれをうまく描いていると感じる。ボクは結局はゲイの道を選んだが、女性経験がないわけではなく、これでも3度ほど結婚に辿り着きそうになったことがある。でも、自分に忠実でいることにした。性生活とか無理ですから。かといって男性と結婚する気もないけど。同居も微妙、プライバシーが保たれればするかも、という程度。
 また、他方で、マイクは兄のリチャードに向って「あんたが父親だ」と責めるシーンがある。事実は映画の中で明らかにされていないが、兄と母との間に生まれた近親相姦の子供ということになる。心境は複雑だ。ラスト、遠景でマイクを連れ去るシーンでは誰だかわかりにくいように撮っているが、おそらくあれは兄のリチャードなのだろう。ゲイというだけでも数奇な人生なのに、これは悲惨だ。体でも売ってないとやりきれないかも知れない。彼は、普通にはなり切れずに、それを拒絶するかのように、外れた道を選んだように思える。家族に理解されるというのは難しいし、赦されても本心までは解ってもらえないものだと思う。やはり、家族と離れて恋人と暮らすか、一生独りを決め込んだ方が自然だと思う。共同生活は相容れない、そう思う。
 せっかく、ゲイのブログなので、それっぽいことも書いておきたい。エッチなシーンは少なく、写真の送りで表現されるセックスが多いが、冒頭でマイクが口でイカされるシーンがある。リバー・フェニックスがとてもセクシャルに喘いでいる。そしてその瞬間を、家が落ちて砕ける映像を挿入することで表現しいているのは実に斬新だ。一応エロ映画ではなく、普通の興行なので、その枠の中で面白い撮り方をしているとボクは思う。盛り上がりに欠けるようにも思うし、ボクがリバー・フェニックスのファンということで偏見が入っているが、この映画をこのブログの最初の記事に出来たことを嬉しく思う。もう、観ている人も多いと思うけど、よかったら観てください。

◎作品データ◎
『マイ・プライベート・アイダホ』
原題:My Own Private Idaho
1991年アメリカ映画/上映時間:1時間44分
監督:ガス・ヴァン・サント
出演:リバー・フェニックス,キアヌ・リーブス,ジェイムズ・ルッソ,ウィリアム・リチャート,ロドニー・ハーヴェイ